新城彰の本棚

ミステリー好きの自分勝手なコメント

貴族探偵ホーン・フィッシャー

 1922年発表の本書は「ブラウン神父シリーズ」などで知られたG・K・チェスタトンの短編集。ブラウン神父は逆説と皮肉に満ちたユニークな探偵で、シャーロック・ホームズのライヴァルたちに数えられることもあるのだが、全く次元の違った物語である。ホームズが奇妙な事件に興味を示して、好んで事件に巻き込まれるのに比べ、ブラウン神父は第三者の客観的な立場から、どうでもいいような風情で真実を暴く。

 

 本書で探偵役を務めるのは、貴族探偵ホーン・フィッシャー。全く知らなかった主人公だが、ブラウン神父風の逆説を吐きながらも、セイヤーズのピーター卿に似たスタンスを取ることもある。表題にもあるように知識は豊富で「知りすぎているゆえに何も知らない」と逆説を吐く。

 

 自らも貴族階級の一員であり、事件の多くは貴族階級の中で起きたもの。第一次世界大戦直後ということもあり、戦傷を負った人物が出てきたり国家間の諜報戦のようなストーリーが目立つ。

 

        

 

 ワトソン役に近いのが、新進気鋭の記者ハロルド・マーチ。最初の作品「標的の顔」で、財務大臣との面会に行く途中、魚釣りをしている男に出会う。これがフィッシャーで、共に自動車が崖から落ちるところを目撃し、死体を確認したことから事件に巻き込まれる。

 

 多くの外国人貴族たちが集う仮装パーティで、外交官(諜報員?)のブルマー卿が殺される「塀の穴」事件では、フィッシャーは血痕もなにもない斧を見つけて「犯人は現場にいなかったんです」と謎めいたことを言う。

 

 本筋とは関係がないが、北欧の国との戦争を回避するためにフィッシャーが事件を捌く「釣師のこだわり」には、首相も登場し演説をする。その名前がメリヴェール卿。チェスタトンカーター・ディクスンの交友関係は不明ですが、作風に影響を受けている部分はあるので、ディクスン名義の探偵をヘンリー・メリヴェール卿としたようにも思えます。

警官の父親を殺した容疑者

 エド・マクベイン大河ドラマ「87分署シリーズ」は、1956年から約50年間書き継がれた。前回1990年発表の「晩課」を紹介したが、本書はその次の作品(1991年発表)。1990年代後半以降の作品は手に入っておらず、本棚の残りも少なくなった。本書では、9作目「死が二人を」に登場したキャレラ刑事の父親トニイが、強盗に殺されてしまう。

 

 このシリーズは、実際の刑事部屋同様に複数の事件が並行して描かれる。本書でメインとなったのは、22歳の金髪娘がめった刺しされて殺された事件。確かに美女なのだが若さに似合わぬ立派なアパートに住んでいて、部屋からは高価な衣料や装飾品のほか1万ドル以上の現金が出てきた。さらに、男と交換したらしいエロチックな手紙も見つかった。

 

 キャレラたちはその「男」を探すのだが、見つける前に自宅で射殺体となって発見された。70歳に近い富裕な弁護士で、30歳代の娘2人、離婚した60歳代の妻、2年前に結婚したばかりの娘と同じ歳の妻がいる。随分な艶福家だが、さらに孫のような娘と愛人関係にあったらしい。遺産を受け取るのは現在の妻と2人の娘、加えて1万ドルづつ付き合いのある骨董屋とペットショップの経営者に贈られることになっていた。

 

        

 

 パーカー刑事は、町を離れていたという一人の娘が犯人だという。現在の妻は、22歳の愛人と交換したエロチックな手紙を見て激怒した。事件を追うキャレラに緊急の連絡が入った。パン屋を営んでいた父親の店に、2人組の強盗が入り、父親トニイが撃たれたという。病院に駆け付けた彼と妻のテディ、妹のアンジェラは、結局トニイを言葉を交わすことは出来なかった。

 

 黒人街の多い45分署管内での事件で、目撃された容疑者も担当する刑事たちも黒人だ。物語は艶福家の弁護士たちの連続殺人と、トニイが殺された強盗事件、さらに囮捜査で深く傷ついたクリング刑事の元恋人アイリーンことなどがからみあって進んでいく。

 

 7月のアイソラは「もやと熱波と湿気の3騎士が襲ってくる」暑苦しさ。その中で、警官の父親を殺した容疑者を追う、45分署の黒人刑事たちの執念が目を引く。アイソラ中の警官がなんとしても捉まえると意気込み、最後に容疑者たちを追い詰めたシーンには迫力が満ちていた。

 

 イタリア移民の家族は、とても温かいといいます。キャレラ家の家族の話は、もっと書いてくれてもいいかなと思いましたね。

 

コミュニケーションが苦手な日本人へ

 2017年発表の本書は、経済学者暉峻淑子(てるおかいつこ)氏のコミュニケーションを基軸に据えた社会論。冒頭「対話が続いているうちは、殴り合いは起きない」というドイツ人の言葉が紹介されている。これは真実で、

 

・誘拐やたてこもり事件でも交渉しているうちは、人質は比較的安全

・外交チャネルが開いているうちは、サイバー攻撃はあっても侵攻には至らない

 

 のが常識である。赤ん坊が基礎的な知識を得るには、親などからの働きかけが必要。働きかけの多くは対話だとある。対話とは、上意下達の指示や講演のような一方通行ではなく、対等の立場で思うところを述べ合うこと。ディスカッションであってもいいが、優劣を競うディベートではないと筆者は言う。

 

        

 

 実は日本人はこれが苦手で、その理由は、

 

1)異文化が少ない環境で育ち、一体感を持っていて、言葉に出さなくても理解してもらえると思っている。

2)万人に認められるルールではなく、特殊な人間関係で社会的な取り決めが成される傾向が強い。

 

 のだそうだ。その結果、数々の悲劇が起きているとある。例示されていたのは、

 

・職員会議からの意見具申を排除した東京都教育委員会

・笹子トンネルの事故前の点検が手抜きだったこと

・関越道高架下に建設された公共施設の方針決定過程

 

 である。そんな日本だが、本質的に人間は対話を渇望している。それが発露した例は、いくつかみられるという。あるコミュニティでは、何人かが自分の困っていることを提起して、対等な立場で意見を交換する会合が定期的に開催されるようになった。このような活動が広がっていくことで、民主主義の基礎が固まると言うことらしい。

 

 道路整備などの街づくり、障害児教育、基地など迷惑施設対応など、いずれも対話が解決していくと筆者は言う。うーん、政治の基本も対話ですよね。米中対立やウクライナ紛争も・・・無理かな?

日本の新本格1965

 1965年発表の本書は、高木彬光の「検事霧島三郎」シリーズの第三作。1948年「刺青殺人事件」でデビューした作者のレギュラー探偵は、天才神津恭介だった。初期の神津シリーズは、ある意味米英の「探偵小説」を基にしたもの。しかしデビューから20年近く経って、天才探偵を続けていくことに限界を感じていたようだ。そこで「人蟻」で弁護士百谷泉一郎を登場させるなど、よりリアルな社会派ミステリーへと踏み出している。

 

 社会派としてTVドラマにもなって有名なのが、本書の主人公検事霧島三郎。東大在学中に司法試験に合格する秀才だが、決して血の通わぬ天才ではない。正義感も強く、検察官を目指し東京地検に配属される。デビュー作では恩師竜田弁護士に容疑がかかった事件を担当、恩師を救い娘の恭子と婚約する。

 

 本書では、その時やはり三郎に恋をし、恭子に敗れた尾形弁護士の娘悦子が事件の渦中に置かれる。三郎をあきらめ暗い日々を送る悦子には、父親が買っている樋口弁護士が心を寄せている。しかし悦子は、どこか暗い影のある経営学者塚本義弘に魅かれる。ところが、義弘の父親は行動右翼の幹部で、戦後獄死していた。義弘自身の周辺にも、右翼の大物や怪しげな男が現れる。

 

        

 

 「結婚は許さん」と言われても、決して引き下がらなかった悦子は、ついに婚約を果たしたが、結婚式を挙げた直後に夫は殺されてしまった。捜査を担当することになった三郎は、どうして結婚式当日で明日は新婚旅行に出るという日に殺されなくてはならなかったのかを考える。

 

 義弘自身の過去にも、疑念が湧く。弟が焼死していたり、私大助教授にしては多額の預金を持っていることも捜査で明らかになった。事件はそこから経済的な事案に発展していく。神津恭介であれば、犯行の手口や物証から事件の真相を暴くのだが、三郎は背景となっている経済事案を綿密に調べ始める。犯行の動機は、塚本家が握るある種の利権にあると睨んでのことだ。

 

 このころ笹沢佐保が提唱した「新本格」というブームがあったと解説は言う。パズラーとしてのミステリーではなく、もっと血の通った「小説」にしようという流れだ。作者もその一翼を担い、新しいヒーローを産み出すとともに、自身も「小説家」としての成熟度を増したのだと思う。

 

 学生時代は分かりにくかった「新本格」の意味、今なら少しは理解できますよ。

アベ政治とは何だったのか

 2021年発表の本書は、菅政権末期の同年8月前後に「自民党」を長く見てきた8名の関係者・有識者に宝島社がインタビューした結果をまとめたもの。安倍・菅政権の9年間に批判的な人ばかりで、政権の功罪というよりは「罪」ばかりを取り上げた内容となっている。本来題名は「官邸一強政治、失敗の本質」とすべきかもしれない。

 

 ポイントとしては、

 

・国民への説明をしないまま、疑惑があっても選挙で勝つことで禊を済ませる

・官邸支配のため、抵抗する官僚を即時更迭して見せ官僚を非機能状態にした

・政治野望の強い官僚を官邸に長くとどめて置き、その力で強権政治を行った

・本来多様な意見のある自民党議員を、党の支配で縛り付け一強体制を構築した

・党公認や大臣ポストなどを道具に使い、政治家の言論を封殺した

・政治家も官僚も、縁故主義や好き嫌いで選別し「あるべき議論」をさせなかった

 

        

 

・政治家は、お友達、右派、総理一族、イエスマンを重用し、他は冷遇した

・国民には「自助」を求め、なるべく「公助」に頼らないよう意識づけた

・メディアに対してはおもねる者だけを重用し、そうでない者はバッシングした

・政治的公平性を盾に、これに抵触する場合は電波停止するなどと脅した

 

 最後のものは先日起きた「総務省放送法4条解釈論」にも繋がるかもしれない。

 

 安倍元総理の野望は「米国の認める範囲での、大日本帝国の復活」(思想家内田氏)だったとある。自民党の右派である<清和会>のTOPが長く総理を続けたことで、戦争の出来る国への道を歩んだともいう。闘いたくはなくとも闘えるようにしていることは重要で、それを目指した安倍政権については僕は評価する。しかし先日「正論」の授賞式会場で感じた「右寄りすぎる感」への危惧がないわけではない。

 

 その危惧の部分を強調する「傍証」をまとめた書でした。参考にさせてもらいますが、全部を鵜呑みにはできませんね。