新城彰の本棚

ミステリー好きの自分勝手なコメント

密室という迷宮

 本格推理小説の代表的なジャンルに「密室もの」というのがある。これを得意とした作家に、ジョン・ディクソン・カー(別名カーター・ディクソン)という人がいる。推理小説の始祖とされるエドガー・アラン・ポーの「ル・モルグ」も、ある意味密室殺人事件を扱ったものだった。
 
 閉じられた部屋の中で人が死んでいる。出入りできない部屋であるとか、監視している人などがいて誰も出入りしていないとか、犯人が煙のように消えてしまったという不可解な事態が持ち上がる。魔術・呪術のたぐいが疑われたり、未知の兵器が使われたという説が出てきたりする。もちろん、前者なら怪奇小説、後者ならSF小説の世界になってしまうので、作中の議論にはなっても、解決にはならない。

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 何らかの方法で殺人を成し遂げ逃げ延びようとした犯人を、その手法とともに暴くのが探偵役の仕事になる。カーの代表作「三つの棺」には、その手法の詳細な分類・分析があって「フェル博士の密室講義」と呼ばれている。この小説は1935年の作、それまで公表された作品の密室トリックはおおむねカバーされている。だから「密室トリック」に興味を持った読者は、最初にこれを読むべきではない。
 
 密室ものは怪奇小説やSF小説のような解決にはならないと言ったが、怪奇小説風密室ものというのは面白い趣向である。カーはこの分野も得意としていた。「三つの棺」も吸血鬼(もしくはUndead)伝説を下敷きにしていて、いかにも犯人はUndeadではないかと思わせるような展開を見せる。十分オカルティックな気分を味合わせた後、合理的な解決を示すのがカーの真骨頂だ。
 
 カーは1937年に「火刑法廷」を発表、怪奇小説としてのラストと推理小説としてのラスト(解決)を併記するという挑戦をした。書評などでは賛否が分かれているが、僕は二通りの見方ができる「だまし絵」のような小説に挑んだ、いかにもカーらしい作品と思っている。
 
 本格推理小説の本質は「稚気」だという説があり、僕もこれを支持する。「死すらも茶化して楽しむ」という作者の姿勢に読者が共感できればいいのである。そういう意味でだまし絵に挑戦したのも「稚気」と思えばいいのではなかろうか。
 
 本格推理小説(今回はあえてミステリーとは書かなかった)そのものがそうだが、密室ものは特にバリエーションが少ない。どうしても似たようなトリックになってしまう。読者は新しい刺激を待っている。怪奇小説にもSF小説にもならないで新しい手口はないかと知恵を絞る、それは迷宮からの脱出に似た努力なのかもしれない。