新城彰の本棚

ミステリー好きの自分勝手なコメント

ウーゼドム島ペーネミュンデ

 半島の付け根の国が、相変わらず騒がしい。何年か前中距離弾道弾「ムスダン」と思しき飛翔物を4発同時発射、日本海に着弾させた。移動式発射台を使っての斉射であり、軍事的脅威は増していると専門家は言った。続いて固体燃料の燃焼試験を満面の笑みを浮かべてたたえる彼の人物の映像も流れ、先行きを懸念させる報道・行動になっていたのを思い出す。

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 この弾道ミサイルだが、ルーツはナチスドイツのV2号であることは良く知られている。第一次大戦に敗れて巨額な賠償と悪性インフレに悩んでいたワイマール共和国で、1927年に「宇宙旅行協会」が発足する。彼らは宇宙旅行のための液体燃料ロケットの研究を始めるのだが、当然資金難に陥る。
 
 これに救済の手を差し伸べたのが、このロケットとフォン・ブラウン博士らの才能に長距離攻撃兵器の可能性を見出した(ワイマール)陸軍だった。ヒトラーが政権を掌握した後の1936年には小型ロケットの開発計画を終了。より大型の開発に入り、ベルリン郊外から研究施設をバルト海の離島であるウーゼドム島ペーネミュンデに移して、試作や実験を始めることになる。
 
 A4型と呼ばれた大型ロケットの発射実験が成功したのが、1942年10月。この時点で戦局は膠着し、ドイツ軍のさらなる進撃は望めなくなっていた。このロケット兵器とは別に、ジェットエンジンを積んだミサイルも開発されていて、V1と呼ばれていた。V1はロンドン空襲などに使われ初期には戦果を挙げたが、ちょっと早い戦闘機程度の速度なのでRAF(Royal Air Force)が慣れてくると、迎撃されるようになった。
 
 スピットファイアやモスキートのような高速機がV1の横に付き、翼を使ってハネ上げてコースを外れさせることもできたという。怒ったヒトラーは、もっと高速のミサイルをもとめた。それゆえV2と名付けられた上記大型ロケットは、人類最初の「弾道ミサイル」として、イギリスやベルギーに降り注ぐことになった。
 
 70年余後の現在の軍事技術をもってしても、弾道ミサイルの迎撃には困難な面がある。一旦発射されれば当時の連合軍に成すすべはなかったが、ペーネミュンデの研究施設や配備された発射基地を空爆することである程度の予防措置は可能だった。大量生産できるだけの設備や物資もドイツ側には残されておらず、Vの意味する報復(Vergeltungswaffe)は成らなかった。
 
 フォン・ブラウン博士は戦後アメリカに移り、アポロ計画を主導した。技術者として、最初にやりたかった「宇宙旅行」を完遂できたわけだ。