新城彰の本棚

ミステリー好きの自分勝手なコメント

エジプトツアー、1937

 アガサ・クリスティーは旅行好きだった。列車や飛行機、リゾート地を舞台にした作品は非常に多い。本書の舞台もナイル川のクルーズ船である。「オリエント急行の殺人」では、雪に閉ざされた列車の1等車の乗客乗員10名あまりが容疑者になる。このように舞台を限定することでサスペンスを盛り上げるとともに、適当な数の容疑者を設定することができるのが、作者としては魅力的である。

 

        f:id:nicky-akira:20190424061341p:plain

 
 ただこの「適当な数」というのが曲者で、10名を超えると読者にとっては負担になる人も多いだろう。かといって4~5名となると、意外な犯人など作者の見せ場が限定される。個人情報を保護するため、「K匿名化」という手法が用いられることがある。氏名を秘すとしても、どの地区に住んで、何歳くらいで・・・と情報をつなぎ合わせていくと「これってAさんだよね」と分かってしまうことがある。それゆえ、情報をつなぎ合わせてもK人以下には絞れないように配慮するということ。
 
 例えば、NTTドコモが携帯電話の位置情報を匿名化して利用できるようにしている「モバイル空間統計」というサービスがあるが、K値を5~6あたりに設定してこれ以下の人数はゼロとレポートしている。ある時間、あるエリアに一人しかいないとレポートすれば、統計情報といえ「あ、これAさんだ」と分かってしまうからである。
 
 さて本書の殺人現場であるクルーズ船「カルナク号」には16の客室があって、空室が2つ、探偵ポアロと英国情報部のレイス大佐の1室づつ占めていて、被害者の部屋もあるので、常識的には容疑者は11室の12人ということになる。常識的にはと断ったのは、ひねた読者をひっかけるため作者側は、探偵やその協力者が犯人だったり、被害者が実は犯人だったりする結末を用意することもあるからだ。
 
 クリスティは、これらの容疑者を「カルナク号」に乗せる前からオムニバス的に描いて、読者になじませる。ただ慣れないカタカナ名前で似たようなものもあり、日本人読者としてはたびたび登場人物表を見て確認しないとついていけない。この10名あまりの容疑者を、ポアロたちは尋問して真相に迫るのだが、エジプト・ナイル川の旅情も背景にしていて、陰惨な事件というよりは、レジャーの途中でゲームを楽しんでいるような雰囲気もある。解決も鮮やかで、ポアロものとして屈指の名作だと思う。
 
 80年も前の作品だが、ようやく僕らがクルーズ・ツアーなどを身近に感じるようになってきてある程度実感できる。当時からそんなことになじんでいたイギリスの上流階級って、本当に心も豊かだったと思いますね。