74年前の今日、長崎に2発目の原爆が投下された。僕の親父はその目撃者である。今の長崎空港は大村湾の中に人工島として建設されているが、その北東に小規模な海上自衛隊の航空基地がある。さらにその北隣には陸上自衛隊の駐屯地もある。それらは、旧帝国海軍・陸軍の施設だったところである。
親父は、その陸軍駐屯部隊の一員だった。徴兵されて九州へやってきたのだが、言葉が通じなくて困ったという。まあ、そんなことが悩みなのは戦争の終盤において贅沢な話だったかもしれない。戦闘といっては、たまに艦載戦闘機(コルセア?)がやって来て機銃掃射をしていくくらいのものだったらしい。当時の艦載機は、12.5mm機銃4~6門に加えロケット弾とか250kg程度の爆弾も装備していたから、そんな兵器を使う価値もない基地だったのかもしれない。
もちろん飛べる航空機もなく、まともな高射砲などの対空火器も残っていなかったのだろう。そんなある日、昼前にたった1機のB-29が長崎上空に飛んできたという。防空壕を出た親父たちは、「あれは偵察機か」と言っていたが、その直後閃光に続いて爆風に吹き飛ばされた。長崎市街地からは直線で20km以上あるのだが、原爆の威力はすさまじかったらしい。
それを受けて、親父の上官が「日本軍の新兵器だ」と叫んだそうだが、冗談にもほどがあると言いたい。高空を飛んでくるB-29には手も足も出なかった日本空軍(そういう組織はないのだが)ではあるが、可能性のある迎撃機はあった。
◆震電(J7W1)
全幅 11.1m
全長 9.7m
全備重量 4.95t
最高速度 8,700mの高度で750km/時
よく架空戦記で出てくる「震電」。エンテ型という特殊なスタイルで、プロペラは後ろについている。レシプロ機が後ろ向きに飛んでいるような異形機である。プロペラのない機首に30mm機関砲を4門も据えた最強のインターセプターである。これが実用化・実戦配備されていたら、たった1機のB-29が原爆投下できたはずはない。
もちろん、日米戦が起きた後はどのような兵器が開発されようが大きな流れを変えることはできないと、いくつかのシミュレーションゲームで体感した僕である。ただ、もう少し戦略的・戦術的に選択肢があったのではないかと、この日にあたり思います。