新城彰の本棚

ミステリー好きの自分勝手なコメント

テムジンの参謀(後編)

 モンゴル族自身の人口は少ない。しかし降伏させたり捕虜にした民族の兵士を前面に立て、チンギス・ハンの天才的軍事力で西へ西へと攻め上る。敦煌周辺の「西夏」(タングート族)から、天山山脈の北の「西遼」(契丹族)を経てついにカスピ海東のホラズム王国をも併呑する。ここまでくると、イスラム教徒のペルシア人も幕僚に加わってくる。人種・宗教・文化・言語のごった煮のような国家になってゆく。

 

 その中で耶律楚材は徐々に重用され、ついに宰相の座につく。とはいえ富裕な生活をしたわけではなく、東奔西走して各地の施政を正し、すこし時間ができると詩を詠み琴をひいた。そしてチンギス・ハンの寿命が尽きるとき、跡目争いを収める役割を担うことになる。

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 一代の天才チンギス・ハンには、4人の息子がいた。長男次男は仲が悪く、調整役としては三男のオゴデイが優れている。しかし末弟トゥルイもモンゴル族の「末子継承」の風習を盾に意欲十分である。楚材はチンギス・ハンの内意を受けてオゴデイを後継者にするために工作する。

 

 オゴデイの代になって、モンゴル王国はサマルカンドを首都に定め定住をし始める。サマルカンドゴビ砂漠の北で、バイカル湖にそそぐ河が流れている。モンゴル族の住まいは移動式テントだから、築城術などもない。占領地で得た人材に期待すべきなのだが、それまでは皆な殺すか奴隷にしていた。楚材は彼らを登用するシステムを作って王国の技術や文化を変えてゆく。

 

 定住を始めたものの、侵略はやまない。東は「金」を圧迫し、西はキエフまで兵を進める。西部戦線(?)までは、首都から伝令を送っても3カ月かかるという距離だ。加えて王朝の中にも不穏な空気が流れてくる。末弟トゥルイの未亡人にペルシア人がとりいり、政治に口を挟み始めたのだ。中東のイスラム教徒たちも、アラブ人とペルシア人では気質が異なり、ペルシア人は商売上手だという。

 

 楚材の晩年は、大酒で体を壊してゆくオゴデイを支え、ペルシア人との暗闘に費やされる。そしてついにオゴデイも死に、跡目は以前からの密約の通りトゥルイの子供たちに受け継がれてゆく。

 

 まさにスケールの大きな歴史物語で、700ページを短く感じさせる力作だった。楚材は文官なので、派手な戦闘シーンなどは全くなく戦闘前の工作や戦闘後の施政など敵国の市民の被害をいかに軽くするかに奔走した彼の哲学がにじみ出る。名前からして「外国で重用される」ことを運命づけられた男の生涯、面白かったです。