新城彰の本棚

ミステリー好きの自分勝手なコメント

ツェッペリン飛行船

 南ドイツ、バーデン=ヴィッツベルグ州コンスタンツの船着き場に、背中に羽根を生やした男のモニュメントが建っている。イカロスのようにも見えるが、これがフェルディナント・フォン・ツェッペリン伯爵の像である。伯爵は飛行船の開発・運用に生涯や財産を掛けた人物で、周囲からは「キチガイ伯爵」と呼ばれていたらしい。
 
 空を飛ぶ夢というのは、多くの人たちを魅了するようだ。今でも、しんどい仕事なのに宇宙飛行士になりたい人は多い。20世紀の初めころは、宇宙ではなく大空がその対象だった。ライト兄弟の有人動力飛行(1903年)に先立ち、ツェッペリン飛行船は1900年初飛行に成功する。ツェッペリン伯爵の領地は、ボーデン湖沿いのフリードリヒス・ハーフェンにあり、初飛行の地もそこだった。
 
 ボーデン湖は、ドイツ・オーストリア・スイスの3国にまたがる湖だが、北岸は西端のコンスタンツから東端のリンダウまでドイツ領である。フリードリヒス・ハーフェンはコンスタンツとリンダウのほぼ中間にある。一度だけ、コンスタンツからリンダウまでの船便に乗ったことがある。湖の北岸にはぶどう畑が並び、湖の反射光も含めてたっぷりと陽を浴びている。このあたりのワインは、外国に輸出されることはなく、地元でのみ消費されてしまうが、さっぱりとした味で忘れがたいものがある。もちろん、白。
 
 輸送・観光用として普及してきたツェッペリン飛行船は、第一次大戦では120機ほどが偵察や爆撃にも使用された。ロンドンを空襲する飛行船に対し、英国の複葉戦闘機が迎撃するシーンが見られた。戦争が終わり、1928年に製作された "LZ 127" グラーフ・ツェッペリン号がひとつのピークだった。全長235m、航続距離10,000kmという大型飛行船で、世界一周を企画したのである。グラーフ・ツェッペリン号は、1929年には日本にも飛来した。
 
 第二次大戦までの期間、列強各国は飛行船の軍事利用を研究した。米国海軍は、1隻の飛行船は数隻の巡洋艦に相当するとの研究結果を発表している。巡洋艦はより小さな艦艇(駆逐艦哨戒艇等)を砲撃することはあるが、主力艦(戦艦・巡洋戦艦)と交戦することは想定されていない。日本海軍が酸素魚雷巡洋艦に搭載して、主力艦を狙う戦術を考えたのは例外と言える。

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 巡洋艦の基本的な任務は、偵察である。敵の主力艦の位置を確認し、可能な限り追尾して位置や編成・戦力などを報告し続けることが期待されている。これは、日本海海戦の初期段階を見ればあきらかだろう。速力の遅い旧式艦艇を抱え、長旅で速力が鈍ったバルチック艦隊日本海軍の巡洋艦を振り切ることができず、東郷艦隊の待ち伏せをうけてしまう。
 
 いかに快速とはいえ、巡洋艦はフネである。空を飛ぶ飛行船と偵察範囲を比べれば、勝負にならない。米国海軍は巡洋艦の偵察能力を飛行船で代替した場合のことを考え評価したのである。しかし、飛行船には大きな問題があった。飛行機に比べれば低速なのは航続距離でカバーできるかもしれない。当時の飛行機は「バッタのように飛んだらすぐ降りる」程度しか飛べないからだ。
 
 飛行船先進国のドイツにとって最大の課題は、不活性のヘリウムガスが入手困難なため危険な水素ガスを使わざるを得なかったこと。このために、ヒンデンブルグ号が爆発事故を起こすなど、空の旅は発展を続ける飛行機に移ってゆく。
 
 そして海の戦場でも、偵察能力は航空母艦巡洋艦+搭載機で飛躍的に向上し、飛行船の出番は無くなっていった。ドイツ海軍が航空母艦の建造を企画しながら、未完成に終わった「グラーフ・ツェッペリン」の名前が皮肉に思われる。