新城彰の本棚

ミステリー好きの自分勝手なコメント

英国諜報界の語り部

 昨年末、スパイ小説の巨星が墜ちた。代表作「寒い国から帰ってきたスパイ」を始め、リアルな現代の諜報戦を描き続けたジョン・ル・カレである。晩年はハンブルグコーンウォールで過ごし、時にはベルンから奥に入ったスイスの山荘でも暮らしていたらしい。享年89歳。2016年発表の本書は、その回想録である。

 

 1961年「死者にかかってきた電話」で作家デビュー、翌年以前紹介した本格ミステリー「高貴なる殺人」を発表、そして自らの体験を活かした第三作「寒い国・・・」で大ヒットを飛ばす。20余作の作品があるが、そのすべてが日本語訳されている。

 

 30歳までのル・カレ(本名ではない)の経歴は、ある意味驚くべきものだ。父親は賭博師だし詐欺師、ル・カレが大学を出るための学資も恐らくは綺麗なカネではない。父親とは20歳前から疎遠になり、一時期英国を脱出してベルン大学で学んでいる。ドイツ語・フランス語に堪能だったようで、帰国後MI5に誘われて正規の職員になり、その後MI6に転籍しボンの英国大使館に二等書記官として勤務している。

 

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 30歳前に作家デビューを果たすのだが、その後も何らかの形で英国諜報部の仕事は続けていたようだ。その活動範囲はインドシナ半島ラオスミャンマーから中東のレバノンイスラエルソ連崩壊前後のロシアにまで広がっている。ソ連水爆の父サハロフ博士や、サッチャー首相、アラファト議長などとも逢い、その人となりをコメントしているが、その実どんな「任務」を果たしたかは秘匿されているのだろう。

 

 本書の解説は、作家で外交ジャーナリストでもある手嶋龍一氏が書いている。彼は「諜報員であった作家が回想録に書けること」には限界があるという。本書中には有名な二重スパイだったキム・フィルビーとの交流もあるが、どこまでを公表できるかには悩んだことだろう。いかに「英国諜報界の語り部」と言われる筆者でも、いやそうだからこそ言えないことは多いはずだ。

 

 諜報活動以外で僕が興味を持ったのは、映画界との関係。「寒い国・・・」が映画化されてヒットしたこともあって、他の作品にも誘いはあったしオリジナル脚本を求められたこともある。そんな時、監督や主演俳優などとの事前打ち合わせが上手くいかず、幻に終わった映画もあったとのこと。

 

 実際に諜報活動に携わり、その経験でベストセラー作家になった人は、もう出てこないかもしれませんね。