新城彰の本棚

ミステリー好きの自分勝手なコメント

「日本鬼子」の三光作戦

 明日は僕の親父の誕生日、満94歳になる。親父は太平洋戦争末期、最後の初年兵として招集され、外地に派遣される前に終戦となって命拾いをした。わずか数ヵ月の兵隊さん生活だったが思うところは一杯あるようで、よく酒に酔うと当時の話をしていた。曰く、

 

・二年兵、三年兵の初年兵いじめ

・軍隊の本質は「運隊」

一銭五厘の兵隊より銃や馬が高価

 

 というわけ。親父も詳しくは語らなかったのだが、本書(1978年発表)にはそれらすべてが、赤裸々に語られている。著者の桑島節郎氏は茨城県出身、20歳で出征し中国戦線(山東省)で4年の実戦を経験した衛生下士官(最終階級軍曹)である。黄海に突き出した山東半島の南側の良港が青島、北側には煙台という港がある。著者の所属した独立混成第五旅団は青島に司令部があり、著者は煙台に拠点を置く第19大隊の衛生兵だった。

 

 もともと秦の始皇帝の時代から、広大な中国大陸では面の占領は(始皇帝でも)できていない。重要拠点とその連絡路だけ治めれば「帝国」である。日本軍も青煙連絡道路を保持するだけで、その他のエリアは八路軍が跳梁していた。

 

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 1937年から中国戦線では全面戦争状態だったのだが、士気高く訓練も行き届いていた日本軍は、中国兵を「チャンコロ」と呼んでなめ切っていた。しかし毛沢東率いる八路軍は無理攻めをせず、犠牲を最小限にするように柔軟な戦術を取った。いわば「Fleet in Being」である。ゲリラ戦に手を焼いた日本軍は、三光作戦にのめり込んでいく。

 

 三光とは「焼光(焼き)略光(奪い)殺光(殺す)」ことで、ゲリラではない一般市民・農民にも犠牲を強いた。その結果中国人は日本軍を「日本鬼子」と呼び、全く協力してくれなくなった。便衣隊(ゲリラ)を疑われたり捕虜になった八路軍の兵士を虐殺することもまれではなく、著者自身も上官の命令で銃剣で刺殺した経験を持つ。

 

 知性ある温和な中隊長でも、捕虜を虐待して顧みない人もいる。部下には苛烈でも、中国兵は虐待しない上官もいた。どんな人が上司になるか、どんな戦線に送られるかは全くの「運」で、まさに「運隊」なのである。著者は衛生兵ではあったが、ライフルを持ち手榴弾を投げたり夜間の衛兵にも立ったとある。克明な記録を付けていたことで、戦後本書をまとめることができたという。

 

 親父は最後の兵隊さんの生き残り、その経験が少しは分かる書でした。