新城彰の本棚

ミステリー好きの自分勝手なコメント

陸軍主計大佐新庄健吉

 太平洋戦争の開戦にあたり、米国への宣戦布告文書手交が真珠湾攻撃から1時間弱遅れたのは事実である。その理由としては、宣戦布告文書が在ワシントンDCの日本大使館に送られてきたものの、その翻訳とタイピングに時間がかかって手交時間に指定された現地時間の1300に間に合わなかったと言われている。

 

 しかし本書(2004年発表)でノンフィクション作家斎藤充功は、文書は1300に間に合うようにタイプされて野村大使のカバンに収まっていた。ただし野村・来栖両大使は1300にはDCのマサチューセッツ通り沿いの教会で、ある日本人の葬儀に出席していたという。その葬儀の人物とは、陸軍主計大佐新庄健吉(享年44歳)である。本書は開戦通告の遅れと新庄大佐の活動について、当時の関係者の証言や戦後発掘された資料などから「歴史探偵」をしたものである。

 

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 新庄大佐は陸軍経理学校を優秀な成績で卒業、ソ連駐在時代はその「計画経済」を勉強し、中国では占領地の「軍票作戦:中国通貨を廃し、日本軍の軍票を流通させる」を企画・遂行している。軍人ながら「数字はウソをつかない」と非合理的な陸軍の中で合理思想を説いたため中国での職を解かれ、1941年の春に米国へ赴任する。

 

 米国ではニューヨーク三井物産の嘱託として活動、米国の国力を「数字のプロ」として試算し、日米比率を重工業で1:20とはじき出した。そして「戦えば必ず負ける」と報告する。しかし秋にDCに移ったころから大佐は体調を崩し、12/4に死去している。そして大使館関係者も列席しての葬儀は、まさに真珠湾攻撃の時に行われていたのだ。

 

 野村・来栖両大使は宣戦布告文書を持ったまま列席、司教の話が延々終わらず国務省へ行くのが遅れたらしいことが関係者の証言で分かった。しかし筆者はさらにウラがあると推理する。12/1の御前会議で対米戦開戦が決まった時、東条首相は攻撃の翌日宣戦布告するつもりだったという。しかし天皇から「宣戦布告はちゃんとやれ」と言われて従うのだが、従ったフリをして両大使に「わざと遅れる」よう指示したのではないかというもの。

 

 新庄大佐の分析も宣戦布告が遅れた理由も非常に興味深いことなのだが、この2つが僕の頭の中ではどうにも結びつかない。これが小説なら大佐が宣戦布告遅延計画を嗅ぎつけて行動しようとしたので、大使館に殺されたとなるのだが。ちょっと消化不良の本でした。