新城彰の本棚

ミステリー好きの自分勝手なコメント

理系(土木工学)の歴史探偵

 本書の著者竹村公太郎氏には、ある団体の役員をしていた時に知り合い、いろいろ教えていただいた。国交省の技術官僚(土木工学)で、河川局長まで務めた人。現行ダムの2倍の嵩上げ(貯水量は10倍以上になる)が持論だった。

 

 政策勉強会などでご一緒し、新しい視点と面白い語り口でさすがだなと思ったことが多い。そんな著者が「歴史探偵」を務めたのが本書。作中にあるように「歴史家はほとんどが文系の人、私は理系の視点で見るから新しい発見ができる」わけだ。

 

 18編のエピソードがあるが、著者は歴史的な文献に加えて「東海道53次」などの絵画や、実際に歩いた地形から推理を働かせている。特に江戸中心部の地形から、赤穂浪士が討ち入り本懐を遂げられた理由を解き明かす話は面白い。筆者が「忠臣蔵」の新解釈を始めたきっかけが、半蔵門周辺の地形というのも秀逸。実際に英国大使館や<グランドアーク半蔵門>のあたりは良く知っているので、よく理解できる著者の説には脱帽した。

 

        

 

 「通史」で言うなら、日本の中心地(首都)は、福岡(伊都国)⇒奈良(大和朝廷)⇒京都(平安京)⇒東京(江戸幕府)と移ってきたとある。首都を選ぶには4条件がある。安全・食糧・エネルギー・交通流である。

 

 まだ人口が多くなかった時代は、福岡が大陸からの交通流が良くて選ばれた。しかしこの地は食糧とエネルギー供給がままならず、人口増とともに奈良に移った。奈良は四方を山に囲まれて安全であり、紀伊半島の両側に川が流れていて交通流も確保できた。たださらに人口が増えると、周辺の木材を乱伐しすぎてエネルギー供給が出来なくなった。そこで選ばれたのが京都。

 

 日本列島(本州)で一番くびれているところが、若狭湾から琵琶湖を経て濃尾平野に抜けるところ。ここ(例:関ケ原)は日本海と太平洋を陸路でつなげるに便利なところだ。しかし当時の濃尾平野はまだひどい湿地帯、淀川などの交通流も確保でき、背後を峻険な山に守られた京都が好適だった。しかし長年首都を務めた京都も、手狭になって木材も尽きた。これを知った徳川家康が、湿地帯を大改造した江戸に新しい都を作ったのだとある。

 

 古地図や浮世絵から、18のなぜが解明されました。ほとんど全ては「河川」に関する手掛かりです。本書は取っておいて、時々参照するようにします。