「名のみ知られた名作」はミステリーを読み始めた中学生のころから、ある種の郷愁をそそるものだった。そのいくつかは今になって読めるようになったのだが、一方で中高生のころ読めたものが今手に入らないこともある。今回紹介するフィリップ・マクドナルド「鑢」はまさに「名のみ知られた名作」なのだが、それだけではなく作者自身が「幻の作家」と呼ばれるほど、邦訳が長らく絶版になっていた。
作者は「英国論理派の雄」として知られる。1920~1940年ころを本格(論理)ミステリーの黄金期と呼ぶ人もいるが、英国で米国のヴァン・ダインやクイーンに匹敵するフェアな謎解きを目指した点で代表的な作家といえよう。生涯で30作ほどの作品を遺したが、本書(1924年発表)でデビューする名探偵ゲスリン大佐は、12冊の長編に登場する。
数学に才のある田舎紳士サー・ウィリアムと、スペインの情熱的な踊り子の間に生まれたアントニー・ゲスリンは、学業にもスポーツにも秀で大学卒業後第一次世界大戦で名をはせた。ある時は諜報員としてベルリンに行き、ある時は陸軍大佐として前線指揮をした。戦後<梟>誌の客員記者として気の向いた時に活動しているほか、絵を描き小説も書く自由人だ。
大蔵大臣ジョン・フードが自宅山荘で殺害されたが、凶器は珍しい木工用の「鑢」。現役大臣の暗殺に<梟>誌編集長は、ゲスリンを派遣する。山荘に滞在している貴族などや事件担当のボイド警視とも親交あるゲスリンなら、捜査の一角に加われると考えてのことだ。ゲスリンは、さっそく深紅の愛車を山荘めがけて走らせる。警察は凶器についていた指紋から大臣の秘書を容疑者として逮捕するが、ゲスリンは彼の無実を信じ真犯人を捉えようとする。
作者のミステリーを読むのは初めてだが、確かにこの後デビューするヴァン・ダインらに大きな影響を与えたことは推測できる。やや「トレント最後の事件」の影響が強すぎるかとも思うが、フェアな手掛かりに論理的な解決を導くプロットは彼らの先輩として堂々の風格である。凶器についた指紋や犯行現場の偽装、アリバイ工作などのトリックも豊富で読者を飽きさせない。
こんな作者がほとんど紹介されずにいたのは残念です。創元社が1980年代に復刻したと解説にあるので、もっと探してみましょう。