新城彰の本棚

ミステリー好きの自分勝手なコメント

専制・絶対王政に拘った結果

 1917年の今日7月16日は、ロシアの最後の皇帝ニコライ二世とその家族が処刑された日である。ロシアは欧州の後進国と見られていたが、19世紀末から急激に国力を増し、大規模な陸軍だけではなく、巨大な海軍をも保有するに至った。しかし革命で民主主義を確立したフランスはもちろん、立憲君主制に移行している英国などから見れば、明確に「政治的後進国」だった。

 

 若くして即位したニコライ二世には、絶対王政からの脱却が期待されたのだが、皮肉なことに彼自身は「専制絶対王政」の信奉者だった。ニコライの兄弟は大勢いたがいずれも早世し、凡庸で意志薄弱と言われたニコライに王冠が巡ってきたのだ。弟のミハエルも、母親によれば「もっと意志薄弱」ということで、他に選択肢がなかった。

 

 厳寒の環境にあるロシアで、初めて生まれたのは「リューリク王朝」。9世紀にウクライナの地で発足したもので、3世紀ほどモンゴル族の支配を受けた期間を含め、17世紀まで存続した。その後を継いだのが「ロマノフ王朝」。その後はソビエト共産党体制になるので、わずか2代の王朝しか存在しなかったのがロシアの歴史である。

 

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 ロマノフ王朝は、他国の王族から皇妃を迎えるのが常態化していた。最初の皇帝はロシア人だったのかもしれないが、このような結婚を繰り返すと皇室はロシア人とはいえなくなってしまう。ニコライ二世の皇妃アレクサンドラはドイツから嫁しているが、その母親は英国ヴィクトリア女王の娘でもある。ロシア風に改名する前は、

 

アリサ=アレックス・ヴィクトリア・エレーナ・ブリギッタ・ベアトリーナ

 

 というヘッセンダルムシュタット家の公女だった。この結婚は決して政略的なものではなく、2人の若人が燃え上がった恋の結果であり、いろいろな意味でロマノフ王朝にとどめを刺すものになった。アレクサンドラが持っていた血友病の遺伝子は唯一の王子アレクセイの健康を損ねたし、第一次世界大戦でドイツと戦った時も、皇妃周辺にドイツのスパイがいる(高名なラスプーチン)とのうわさも絶えなかった。

 

 大国でありながら統治の難しい国ロシア。国威を誇る一方で市民は塗炭の苦しみを味わっていたのが、ニコライ二世時代だった。本来なら議会を開き、立憲君主制に移行すべきところ、皇室にはそれを受け入れる寛容さはなかったようです。