1928年発表の本書は、「月と6ペンス」などで知られる文豪サマセット・モームの自伝的スパイスリラー。作者自身WWⅠではスイスを拠点に諜報活動に従事し、大戦末期にはロシアでの革命を阻止しようと現地で工作をしたが、任務は失敗に終わった。
冒頭、作家のアシェンデンが戦争勃発によって緊急帰国し、情報部のR大佐にリクルートされるシーン。
・欧州のいくつもの言語が使え
・作家のカバーなら中立国にも容易に行け
・性格的な素養も十分
と評価されるのだが、R大佐は最後に「上手くやっても誰にもほめられないし、トラブルになっても誰も助けてくれない」という。
それでも主人公は任務を引き受け、R大佐の指示で任地に出かけていく。恐らくは作者自身が経験したことであり、出会った人物なのだろう。全部で16のエピソードが語られる。目立つのは、人物描写の妙。外観から内面にいたるまで、事細かに表現してある。
・ドイツ人の妻を持ち、スパイの嫌疑が掛けられた英国紳士
・あるダンサーにだけは心を奪われる、冷酷なインド人テロリスト
・メキシコの将軍と名乗る大物スパイの派手で無軌道な作戦
・アシェンデン自身が心惹かれたロシア貴族の貴婦人
・ロシア革命に巻き込まれても身だしなみを憂うる米国人ビジネスマン
・性悪な女にかまけて出世を棒に振る大使館員と彼をかばう大使自身の秘密
などなど、魅力的な人物が登場し、アシェンデンは全体を通して(やや透明感のある)脇役を演じている。この人物は何を目的に接近してくるのか?どこまで知っているのか?どこの手先なのか?心理的なサスペンスを、ややグレーなユーモアが包むこともある。
高名なスパイスリラーで、古典的な<外套と短剣>から一線を画したとあったので、高校1年生の時に買ってきた。いまかいまかと主人公の大活躍を待って、拍子抜けした記憶がある。当時は本書が連作短編集だとの認識もなかった。
50年以上たって、僕も大人になりました。英国貴族の暮らしや、紳士のたしなみなどがわかるようになって、ようやく本書の真意に触れられたと思います。