新城彰の本棚

ミステリー好きの自分勝手なコメント

赤穂事件の歴史的考察

 本書は2003年に「忠臣蔵のことが面白いほどわかる本」と題して出版されたものを、加筆修正して2017年に再版した赤穂事件の歴史的考察。筆者の山本博文氏は、東京大学史料編纂所教授。

 

 「仮名手本忠臣蔵」はじめ多くの戯曲・映画・小説・ドラマ等で扱われたテーマであり、俗説と史実が入り混じって伝えられてしまった。筆者はできる限り一次資料(*1)によって、浅野内匠頭吉良上野介に切りつけた松の廊下の事件から、吉良邸討ち入り後の浪士の処分に至る2年ほどの歴史を再構成し、ポイントを新書版にまとめている。

 

        

 

 刃傷事件は、1701年に起きた。徳川の天下が固まって1世紀近く、大きな騒動も無くなっていて、侍が刀を抜くことなどなくなっていた。しかしキレ易い性格で武道にも思い入れのあった浅野内匠頭は、腹に据えかねて吉良上野介に切りつけた。

 

 自身は切腹、お家は断絶、吉良はおとがめなしとなって、200人を超える家臣は路頭に迷うことになる。彼らの選択肢は、個別に仕官、商家などに転職、主君に殉じて切腹、城受け取りに来た幕府勢に対して籠城戦、復讐のため吉良を討つだった。

 

 家臣とはいっても、先祖からのものと中途採用者では、御家に対する愛情が異なる。個々の事情もあって、最終的に50余人が吉良を討つ意思を固めて、江戸の吉良邸を窺うようになる。そして1702年の12月14日(旧暦)、ついに討ち入りとなる。

 

 吉良邸は高家筆頭を上野介が持してから、江戸城内から下町(今の両国駅付近)に移っていたから、城内よりは討ち入りやすい。60歳を越えた義士もいたから、実質戦力となったのは30余名。一方の吉良側も50名ほどの武士がいたが、奇襲されて十分戦えず、戦死16名、戦傷21名、残りは逃亡してしまった。義士側の負傷は2名、そのうち一人は捻挫だったから、上杉家からの増援含めて吉良側の武士は全く役に立たなかったことになる。

 

 本書にちりばめられた関係者の書簡の抜粋など、手軽に歴史を知ることができる貴重な研究書でした。

 

*1:例えば参考文献の一つ「赤穂義人簒書」には、荻生徂徠の「赤穂四十六士論」など当時の論説、「萱野三平贈大石良雄書」など関係者の手記が収められている