新城彰の本棚

ミステリー好きの自分勝手なコメント

覇王信長、本願寺との死闘10年

 2003年発表の本書は、以前「図解 戦国兵法のすべて」を紹介した日本歴史宗教研究所武田鏡村所長の信長戦記。昨日の「織田信長合戦全録」にあったように、家督を継いで30年余り信長は合戦に明け暮れた。その中でも10年の歳月をかけ、結局攻め落とせなかったのが石山本願寺。その場所には大阪城が築城されるのだが、地の利も信徒の結束も政治力もあり、最大の強敵だった。本書は、その戦いに焦点を絞った歴史書

 

 本願寺教団は親鸞を祖とし8代目蓮如の時に全国的に教義を広め、全国の信徒から贈られる財力があり、大名や公家にも影響力があった。1968年に信長が足利義昭とともに上洛してしばらくは、資金提供などもしていた。しかし1570年、信長の所業が目に余るとして開戦、諸国の一向宗徒や大名に信長追討を求めた。

 

        

 

 昨日の「合戦全録」にもあったが、姉川の合戦で浅井・朝倉連合軍に勝ったとはいえ、両軍は比叡山に籠り戦力を保持していた。この時が、信長最大の危機である。しかし信長は和議を策して両軍を退け、顕如は落胆する。

 

 信長が目指したのは「天下布武」、皇室・公家でも寺社でもなく武人が天下を仕切るというもの。最も先進的な戦国大名だった信長はそんな近世を築こうとし、中世の自由民と激しく対立したと筆者は言う。室町時代以前は、庶民は意外と自由だった。

 

 顕如の指示で、長島や加賀の一向宗は織田軍と戦ったし、三好三人衆や根来の僧兵、十河衆、雑賀衆らも参戦した。文字通り命を捨てて掛かってくる信徒は、功利で動く他の寺社などとは全く違った敵だったわけだ。信長は伊勢長島や加賀で、宗徒を皆殺しにする作戦に出て、少しずつ本願寺を追い詰めた。

 

 1580年、ついに顕如は石山を明け渡し紀州雑賀に移る。信長も顕如も死んだ1591年、豊臣秀吉本願寺を京都六条に移し、秀吉も死んだ1602年、徳川家康東本願寺顕如の息子教如)と西本願寺教如の弟准如)に分けて現在に至る。

 

 それでも勝ち切った信長は強かったと思うべきでしょうね。いかに「冷酷非情」の汚名を着ても。