新城彰の本棚

ミステリー好きの自分勝手なコメント

巨大官僚機構の200年史(前編)

 「勝つときは容赦なく勝つが、より良い負け方を知らない」というのが、識者のドイツ軍に対する評価である。ドイツは統一が遅れた国家であり、中心となったのは現在の北ポーランドからベルリンに至る大きくない領土を守っていたプロイセンブランデンブルク公国だった。初代国王フリードリッヒ・ヴィルヘルム一世のころは、常備軍8万ほど。これを継いだフリードリッヒ大王の時代でも、20万人ほどだった。軍事の天才だった大王は支援スタッフを必要としなかったが、その後軍を運用するために「兵站総監部」などが置かれるようになった。これが参謀本部の前身である。

 

 1950年発表の本書は、ドイツの軍事史家ヴァルター・ゲルリッツが崩壊した怪物ドイツ参謀本部の実態を記したもの。

 

 19世紀初め、ナポレオンに散々叩かれたプロイセン軍を立て直したのは、兵站総監シャルンホルストとその後継者グナイゼナウ。復活したプロイセン軍は、ナポレオンを破った。政治と軍事は緊密に連携すべきであり、軍事を担うのは参謀本部だという思想である。

 

        

 

 また、もともと測量技術などを担っていたこともあって、国の重工業化・軍の近代化にあたり、技術研究の色合いも深めてゆく。そんなころ参謀総長に就任したのがモルトケ少将だった。常備軍18個師団に64名の参謀が彼の指揮下に入った。鉄道や電信というインフラを巧みに使い、モルトケデンマークオーストリア、フランスとの戦いに勝利する。

 

 プロイセンは大国となり、モルトケ退任時には参謀本部要員も240名ほどになっている。ただこのころから、参謀将校に対する一般教養教育がおろそかになってゆく。また参謀本部には帷幄上奏権があって、直接皇帝に進言できた。これを乱用する参謀総長も出てきたのだ。

 

 一時期の混乱期を収拾したのが、19世紀末に参謀総長に就任したシュリーフェン伯爵。これまで軽視されてきた兵站部門を強化し、フランス・ロシア両軍と戦うことになった場合の計画を練った。

 

 そしてついにWWⅠの火ぶたが切られるのだが、いずれの国も100万人を超える軍隊の運用はうまくいかない。ドイツでも参謀本部の人材不足で、ロシア戦線では勝ったものの西部戦線は膠着状態に入る。そして「政治は軍事にとっての一手段」と豪語するルーデンドルフ参謀総長の「独裁」が続き、終戦を迎える。

 

<続く>