徳川家康が石田三成らと戦った有名な「天下分け目の一戦」は、岐阜県関ケ原町一帯で行われた。古来このエリアは北国街道、伊勢街道、中山道が交わるところ、交通の要衝であり過去にも一度「決戦」の舞台となったところである。その闘いとは「壬申の乱」。白村江の闘いで日本が敗れ、支援しようとした百済も滅びた。その後の渡来人も含めた日本の政治的抗争の決着を付けたのがこの決戦であった。
通説では、近江京を追われた大海人皇子(のちの天武天皇)は、伊勢から尾張を廻り兵を整えて関ケ原の東「不破の関」に布陣した。対する大友皇子(のちの弘文天皇)は、近江京を支えようとするが大海人軍の先鋒を支えきれず、落ち延びる途中で首をつって死んだとされている。しかし「日本書紀」やその他の歴史書は後世に勝者によって書き直された可能性も多々あり、またその記述に幾多の矛盾があることも良く知られている。近江かその近辺で死んだはずの大友皇子の墓が関東(例:伊勢原)に多数あることなど、歴史家の興味は尽きないだろう。
本書には、壬申の乱で敗れた大友皇子をかばう百済の勇者5名が登場し、みずからを犠牲にしながら皇子を東国へ逃がす物語である。大友皇子も伊賀で育ち遁甲の術(忍法)を学んでいるが、叔父の大海人皇子は天文(占い)と遁甲の使い手で、もともとが日本の天皇家とは血縁のない渡来人として描かれている。天智天皇の功績とされる蘇我一族の暗殺も、実行部隊となったのは大海人皇子だというのが本書の解釈である。
大海人皇子は遁甲を良くする鹿深(かふか)の衆に助けられて政権を奪取するとあるのだが、鹿深とはのちの甲賀(こうか)であるとのこと。確かに僕の祖母(母方は祖父も甲賀の生まれ)は、滋賀県コウカ郡と発音していた。伊賀も甲賀も、百済など半島の渡来人の住みついた土地であり、半島の技術を活かした先端的な街づくり、人づくりをしていたのだという。この両国が渡来人にルーツを持つとすると、後年織田信長が執拗に伊賀征伐をした理由も分からないではない。
自らは渡来人の血をひいていないが伊賀で育った大友皇子と典型的な渡来人である大海人皇子の対決は興味深いものである。どちらも東国を目指して、片方は落ち延び片方はそれを闇のうちに葬ろうとする追跡劇がくり広げられる。この戦いの迫力も見事である。