新城彰の本棚

ミステリー好きの自分勝手なコメント

明国を親とし薩摩を兄と(後編)

 明国が尚寧王を家臣と認め琉球国に封じるという儀式は、3~4ヵ月かけて行われる。百人規模の使節がやってきて、何度も宴会が行われるのだ。使節の下っ端でも傲岸不遜にふるまうので、士分のものだけでなく一般市民も頭を下げて暮らさなくてはいけない。

 

 明国は、100年前に琉球国に技術者集団を派遣してくれた。彼らは久米村に住み、琉球人と同化していったが、技術の伝承は充分ではない。再び派遣をと願っても、明国の方も自分の王朝を支えるので手一杯。アジアに先行したポルトガル人よりも、最近南シナ海に出没するスペイン人は暴力的。さらにその後ろからカンパニ制で力を付けたイギリス・オランダもやってくる。

 

    

 

 そんな周辺の緊張を受けて、謝名親方らは「南海王国」構想を考える。シャムやルソンらと海洋貿易圏を作って、その一部に琉球国をおけばいいという思想だ。団結しなければ、高い技術力と戦闘力をもった欧州の国の侵略を受けてしまうし、明国にはそれを防ぐ力はもうない。

 

 しかしその構想は、予想より早い薩摩の侵攻で打ち砕かれる。1,500の精兵、1,000丁の鉄砲を擁する薩摩軍は、奄美大島・徳之島を攻略、今帰仁城も落として牧港から首里城に迫った。拳法に秀でた一隊が薩摩軍を懲らしめるも、衆寡敵せず城に引き揚げるしかなかった。尚寧王と謝名親方らは薩摩と休戦協定を結び、事実上の占領を受け入れた。

 

 その後尚寧らは捕虜として薩摩に送られるが、狸オヤジは彼らを厚遇するように島津家久に命じる。明国との貿易利権を狙っていたのは、狸オヤジを陰で動かす商人茶屋四郎二郎もだった。

 

 当時の台湾は大きな島でありながら未開の地で、琉球国からは「小琉球」と呼ばれていたそうです。また琉球士分は武芸ではなく、舞踊や音曲に秀でていなくてはいけないこと、それでも女性には舞わせないという妙なルールがあることなどを知らされました。戦国末期、僕らの知らない日本での闘いや琉球の暮らし、面白かったです。今の沖縄県のことを考えるのに、参考にもなりましたしね。