新城彰の本棚

ミステリー好きの自分勝手なコメント

1800年代後半のロス・アンジェルス

 小学生の時、お正月など少し長い休みに子供たちだけでゲームをしていた。高学年になってからは「Bankers」のようなものだったものだったが、低学年の頃はカルタのようなものだった。その中で覚えていたのが、当時TVドラマでやっていた「怪傑ゾロ」をモチーフにしたカルタ。

 

・ヒュツヒュツヒュツとZのサイン

・盗み聞き得意のレオナルド

 

 などアイウエオで始まる言葉に、ドラマの主人公たちの絵が描いてあった。「怪傑ゾロ」については、それだけしか覚えていなくてドラマのシーンも内容も記憶がない。ふと本書をBook-offで見つけて、懐かしさで買ってみた。

 

 読み始めて初めて、物語の舞台が1800年代後半のカリフォルニア州であることが分かった。ロス・アンジェルス、サン・ノゼ、サン・フランシスコなどスペイン系の名称だった理由は、ここがかつてスペイン領だったこと。この辺りはスペインの騎士の家系の人たちやフランシスコ派の修道士たちによって開拓されていたと本書の解説にある。

 

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 地元の有力者ドン・アレハンドロ・ベガと息子のドン・ディエゴはスペインの騎士の系統だろう。ドン・ディエゴの友人フェライプ修道士はフランシスコ派のようだ。物語は彼らが開拓したこの地に、スペイン王家が派遣した総督たちが圧制を敷くところから始まる。さすがに有力者には手を出さないが、労働者や庶民から総督の軍隊は搾取をしたり牢獄につないだりする。これに立ち向かったのが、「カピストラノの疫病神」ともあだ名される盗賊(義賊?)ゾロ。黒いソンブレロに黒いマスクのこの男は、馬を操っても剣を振るっても無敵で、総督の兵士たちはきりきり舞いをさせられている。

 

 総督の部下で砦の司令官レイモンは、やや落ち目の開拓者ドン・カルロス・プリドの美しい娘ロリタに求婚するのだが、ドン・ディエゴも同時に求婚していた。ところがロリタは陰険なレイモンも、金持ちでハンサムだが全く男らしくないドン・ディエゴにも首をたてに振らない。実は彼女の心の中に住んでいたのは「怪傑ゾロ」なのだ。

 

 原題は「Mask of Zoro」(1924発表)、ゾロとは狐の意味である。作者ジョンストン・マッカレーは戦後「地下鉄サム」などの著作があるが日本ではあまり知られていない作家。いや、50年以上前の記憶を呼び覚まさせてくれた、ありがたい書でした。

大酒のみで気弱な若者

 これまで何冊も紹介しているが、本書も津村秀介の「浦上伸介もの」の未読の1冊。アリバイ崩しの名探偵浦上伸介は、作者の第五作「山陰殺人事件」でデビューし、本書(1985年発表)でレギュラーの地位を確立した。そんな記念すべき作品なのだが、長年手に入らなかったもの。日焼けして装丁は擦り切れていたが、見つけて嬉しかった。後年の相棒前野美保はまだ登場せず、将棋好きの先輩谷田実憲と「酒飲み探偵団」でアリバイ工作に挑む伸介である。

 

 横浜の商社「大塚貿易」の社長大塚国蔵は、ワンマン経営者。戦争中は特務機関にいたらしく、事業を興した資金の出所もグレーだ。10人ほどの小さな会社だが、業績は上向き。2人の息子を子会社の社長と本社の役員にして、羽振りは良い。ただ人使いが荒いせいか、社員の入れ替わりは激しい。長井という気弱な青年が一番長く勤めているが、それでも2年そこそこ。

 

 大塚社長は長井を連れ名古屋に出張に出かけるが、何者かに2,500万円の現金を強奪されてしまう。偽電話で呼び出された長井がそばを離れていた間に、クロロホルムを嗅がされてしまったのだ。

 

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 事件は大きく報道され、<週刊広場>では伸介が担当することになった。強奪犯は社長の行動を熟知していたと思われ、社員たちが容疑者となる。社長の秘書役である経理部の和代や長井がまず疑われた。伸介は長井を尾行するうち、彼が和代と一緒に会社を退勤しながら、伊勢佐木町あたりで一人で深酒する毎日であることを知る。足元がおぼつかなくなるまで呑み、鹿嶋田の自宅に帰っていく。

 

 こんな気弱な青年がなぜワンマン社長の側にいられるかと言うと、どうも彼は社長がどこかで産ませた子供らしい。さらに社長には福岡に2人の婚外子がいることも分かったのだが、今度は社長が刺殺されてしまった。凶器に掌紋が残されていたことから長井が逮捕されるが、伸介は(酒飲みのシンパシーで?)彼が無実だと信じる。谷田までが長井犯行説を採る中、伸介は捜査を続け一人の社員が怪しいとにらむ。しかし彼には鉄壁のアリバイがあった。

 

 いつものアリバイものながら、方々に婚外子を作る野放図な大塚社長と、それを恨む子供たちの相克がテーマです。作者が<週刊新潮>で事件ものを担当していたころに、このような事件があったのでしょうか?

迷える子羊が歩く美食の道

 昨日「添乗員が参照するヒミツの参考書:魅惑のスペイン」を紹介した。面白かったのだが、バスク地方を始めとする北スペインの記述がないのが、残念だった。そこで、ちょっと趣旨は違うけれど北スペインを歩いた記録である本書を探してきた。著者の小野美由紀氏は現在フリーライター、大学卒業後会社勤めでパニック障害を発症、自分を見つめ直すために800kmに及ぶ道を歩く旅に出た。

 

 カトリック三大聖地のひとつが、スペイン北西部にあるサンチアゴ・デ・コンポステーラ。ここを終点とした何本もの巡礼路があるのだが、そのうちフランスのピレネーの麓サン・ジャン・ピエ・ド・ポーから伸びるのが「フランス人の道」。

 

 筆者が歩いた2014年以前に、2本の映画(サン・ジャックへの道、星の旅人たち)が人気を呼び、欧州各国からだけでなく米国やブラジルからも巡礼希望者がやってくるようになったとある。スペイン語もわからないで800km歩くなんて・・・と思う向きに筆者は、7つの魅力を示してくれる。

 

        

 

1)宿が激安、費用が掛からない

2)ごはんが美味しく、低コスト

3)世界中の人々の多様な人生観に触れられる

4)ダイエットにも最適

5)巡礼路は世界遺産だらけ

6)語学が上達する

7)自分と対話する時間が持てる

 

 のだそうだ。出発点でクレデンシャルという巡礼証明書を貰い、巡礼路のアルベルゲと呼ばれる宿泊施設で夜を過ごしながら行けば、15ユーロ/日ほどの出費で賄える。筆者は35日かけて、山道・食当たり・靴擦れなどに悩まされながら歩きとおした。途中、就職に悩む韓国娘、離婚して子育て中のスペイン女、知的障害の兄を連れたブラジル青年、夫を亡くしたばかりの米国老婦人などと知り合い、はげましあって巡礼を続けた。

 

 歩き方にもお国柄が出るようで、イギリス人やドイツ人は早朝から夕暮れまで生真面目に歩く。フランス人やイタリア人は朝も遅く、夕方も早々に宿に入りワイングラスを傾けて大はしゃぎする。美食の州バスクを通るし、その周辺も海の幸・山の幸満載の美食どころだ。蛇口をひねればワインがでてくるほど、お酒も安い。

 

 筆者にとってこの旅は「捨てる旅」だった。世間のしがらみ、自分の固定観念、忘れられなかった思い出など、大自然の中で自分を見つめなおせた結果、これらを捨てられたという。

 

 僕は特に捨てたいものはないですが、ちょっとだけ追体験させてもらってもいいですか?

アフリカはピレネーより始まる

 本書は、先月「ドイツものしり紀行」を紹介した紅山雪夫氏の紀行、スペイン編。1997年トラベルジャーナル社より出版された「スペインの古都と街道」を改題、文庫化したものである。馴染み深いドイツと違い、僕ら夫婦のスペイン体験は一度だけ。

 

マドリードの青い空 - Cyber NINJA、只今参上 (hatenablog.com)

 

 に始まる記事で紹介しているが、本書にあるように「日本の旅行者はマドリードから旅行を始め、バルセロナで終える」その通りのツアーだった。マドリードは首都で最大都市だが、人口第二の都市バルセロナが経済と言う意味ではスペインNo.1である。

 

 イベリア半島にはギリシア人の後、フェニキア人がやってきた。バルセロナを中心に「ノヴァ・カルタゴ」を打ち立て、ローマに対抗した。ハンニバル・バルカら、バルカ家がここを発展させ、バルシーノと名付けたのがバルセロナの始まり。

 

 その後イスラム教徒に支配されたが、キリスト教勢力が盛り返し(レコンキスタ)、イスラム色の強い文化・遺跡も残ったエリアとなっている。雨の少ない台地主体の荒れ地が多い地形で「アフリカはピレネーより始まる」と言われるゆえんだ。

 

        

 

 雨が少ないゆえに川も少なく、水運に使える河川はドイツよりずっと少ない。その流域にいくつかの都市が生まれたが、交流は少なかった。今年のウクライナ紛争で、ウクライナ語とロシア語の違い(例:キーウとキエフ)を知ったが、スペイン各地にも言語の違いがある。

 

 バルセロナのあるカタルーニャ地方は、20世紀のスペイン内戦で最後までフランコ総統に楯突いたため、フランコ存命中は40年間カタルーニャ語教育や日常使用を禁じられ、カスティーヤ語を使わされたとある。例えば、カタルーニャ語の名前ペラは、ペドロと改名させられていた。

 

 歴史的建造物も、イスラム支配時代とキリスト教復権以降では作りが異なるとある。イスラム建築は、礼拝も含め室内・屋外の差が少ない。一体化した礼拝設備であり、生活空間だ。だからパティオ(中庭)が特徴的だ。キリスト教では礼拝は室内(教会内)で行うものだから、狭くてもそこで完結できるようになっている。庭は別空間という考え方だ。有名なアルハンブラ宮殿の「ライオンの泉」も中庭にあり、王の生活空間の中心部だったのが、その例である。

 

 まだまだ知らないスペインが一杯ありますね。是非、行ってみたいです。

<バイオプレパラト>元幹部の証言

 1999年発表の本書は、元ソ連生物兵器製造組織<バイオプレパラト>の幹部だったカザフ人、ケン・アベリック(現地名カナジャン・アルベコフ)が、自らの経験を綴ったもの。著者はソ連崩壊時には陸軍大佐の地位にあり、ツラレミア(野兎病)菌を兵器化した功績を持っていた。しかしソ連が無くなったことで、カザフ人の自分がロシアでは生きづらいことを感じ、妻子とともに米国に亡命して米国の防疫体制に協力している。

 

 医師として人の命を救う目的を持っていた彼は、疫学分野で才能を開花させる。修士論文研究は、1943年前後のスターリングラードの戦い。ドイツの機甲師団にツラレミアが蔓延、後にソ連軍や市民にも広がった。彼はソ連生物兵器を使ったと疑うが、担当教授は「君は防疫の過程を研究するだけでいい」と口を封じた。

 

 <バイオプレパラト>でツラレミアを研究し兵器化に成功したことで、彼は博士号を得、30歳そこそこで組織の幹部となった。専門家としてソ連の他の機関や部署での生物兵器の研究・開発・実験などの知識も得たが、重大事故にも触れることになる。

 

        

 

 それらの最大のものは、スヴェルドロフスク(旧エカテリンブルグ)での炭疽菌漏洩事件。フィルタ交換の手違いで、研究機関からこの恐ろしいウイルスが市中に流れた。少なくとも100名が死亡したと言われるが、当局は「自然に炭疽菌が発生」したと発表している。

 

 1973年には「生物兵器禁止条約」が成立していて、ソ連も調印していた。そんな中でソ連は、あらゆる生物兵器を研究し兵器化を図っていたとある。第二次世界大戦以前の資料から、満州にあった石井部隊の資料までも利用している。著者に上司は「米国は生物兵器を全廃したという。彼らが持っていないものを極秘に開発するのだから、これはソ連の『マンハッタン計画』だ」と語ったという。

 

 サイバーセキュリティの世界も攻撃者が圧倒的に優位であるが、この分野のウイルスも同じ性格を持つ。開発・運用のコストよりも、防疫にかけるコストがケタ違いに高いのだ。本書には旧ソ連生物兵器関連組織、研究所などの位置も示されている。意外なことに(核兵器は一杯あった)ウクライナは空白地帯で、ウラル山脈周辺や以東が多い。

 

 昨今ロシア制裁をする国で、本来はアフリカの風土病である「サル痘」が流行しています。これなども旧ソ連の遺産なのではないでしょうか。