新城彰の本棚

ミステリー好きの自分勝手なコメント

「なっちょらん」

 新政府の要である陸軍大将西郷(吉之助改め)隆盛の側で、陸軍少将に就いた桐野利秋であるが、与えられた豪邸や年俸は「身に余る」などと言うものではなかった。月給200円は、職人のそれが7円以下だったというから法外なものである。金は天下のまわりもの、とばかり蓄えることをせずに散財したようだ。

 
 そんな彼の傍らで、新政府の改革は西郷たちの想定を超えて加速してゆく。欧米列強がアジアの国々を次々に植民地化している現状では「構造改革待ったなし」との考えだったのだろう。しかし市民はもとより新政府の中の要職にあるものでも、首をかしげるテンポで物事は進んだ。

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 1871年 廃藩置県、通貨を円に切り替え
 1872年 太陽暦採用、新橋横浜間鉄道開業
 1873年 徴兵制、地租改正
 
 倒幕の主役となった薩摩・長州・土佐らも含めて「藩」がなくなってしまい、旧藩主たちは激怒した。地租改正は後の「秩禄処分」につながる財政改革で、旧武士層(士族)の収入は一般に減らされることになる。あげく徴兵制の導入は、戦闘のプロを自認していた士族のプライドを傷つけ不安感を増した。もっともこの時代、士族といえど戦闘経験を持ったものは多くはなかったのだが。
 
 天皇親政の新政府は、功労者である薩摩・長州・土佐らにも「身を切る改革」を強い、不満を「西郷の仁徳」で吸収させたと、池波正太郎は書いている。板挟みとなった西郷隆盛の悩みはいかばかりであったろうか。
 
 徴兵制交付の年1973年、隣国李氏朝鮮との間に軋轢が起きた。いわゆる征韓論だが、一時決定したかに見えた「西郷特使」の派遣が、岩倉卿・大久保卿らの反対で否決されると、西郷以下江藤新平板垣退助らが政府とたもとを分かった。当然、桐野少将も(軍籍は残したまま)西郷と共に薩摩に戻った。同年内務省が設立され、大久保卿が長官となっている。翌年江藤新平佐賀の乱を鎮圧したのも大久保内務卿であり、薩摩の2巨頭西郷と大久保はついに対立の時代を迎える。
 
 1874年 佐賀の乱台湾出兵
 1876年 日朝修好条規、神風連の乱秋月の乱萩の乱廃刀令
 
 朝鮮出兵はまかりならぬとしがなら台湾には出兵、朝鮮とは宥和しロシアとは交換条約を結ぶ、こんな政府の姿勢を桐野は「なっちょらん」と言い続けた。江藤新平の後も不平士族の乱が相次ぎ、とうとう刀を帯びてはいけないという「廃刀令」にいたる。精神の支柱たる刀まで失い(とっくに質入れしていたかどうかは別にして)、士族の不満はさらにつのった。
 
 そして1877年2月薩摩の青年たちに担ぎ出された西郷が「政府の姿勢を問う」として、兵力約3万を率いて上京することになった。政府側から見ればまぎれもないクーデターであるが、西郷以下薩摩勢は「強訴」程度の覚悟だったのかもしれない。
 
 苦も無く九州をまとめて山陽道に入るつもりが、名城熊本城で谷干城司令官のもと4,400ばかりの政府軍がこれを迎え撃った。谷司令指揮下には、児玉源太郎乃木希典といった後年有名になる軍人もいた。素人徴募兵ばかりと侮ったのか、一向に攻略できない。損害は増すばかりで、ついに転進せざるを得なくなった。この時も桐野は自らに「なっちょらん」と言い続けた。
 
 西南戦争は9月に西郷らの死で終わるが、桐野も最後まで戦い壮烈な戦死を遂げている。享年40歳。以降大規模な紛争は影をひそめるが、翌年には大久保卿が暗殺されるなど「維新の生みの苦しみ」は続いた。近代日本の礎の一つとなった薩摩郷士桐野利秋の生涯を追う約1,000ページ。面白かったです。