新城彰の本棚

ミステリー好きの自分勝手なコメント

経済安全保障の特集記事

 このブログで「雑誌」を取り上げるのは始めて。週刊誌など、昔は<週刊ベースボール>を買っていた時期もある。空港のロビーなどで<週刊文春>を読むこともあったが、このところはまったくご無沙汰。それなのになぜ<日経ビジネス>を取り上げるかと言うと、日経さんから本書が送られてきたから。7/4付けの同誌は「経済安保とは何か~分断する世界で生き残る知恵」と題して、特集が今般成立した経済安全保障推進法についてのもの。

 

 この特集に少し協力をしたので、出版元から送ってもらったのだ。別ブログでも、この法制について何度かコメントさせてもらっている。本来は「Economic Statecraft」のはずなのに、法案が「産業政策」になっているのではと苦言を呈した。

 

「Economic Statecraft」って?(前編) - Cyber NINJA、只今参上 (hatenablog.com)

 

 さて本書の特集だが、中心となる記事は4つ。

 

・推進法の紹介と先送りされた課題(データや人権の保護)

サプライチェーンリスク(権威主義国、気候変動、自然災害、労働人口等)

・喫緊の3テーマ(エネルギー、食料、技術&人材)

サプライチェーン見直しの実例(ロームデンソー

 

        

 

 加えて4人の専門家が、それぞれの立場で経済安保の論点をコラムで述べている。

 

サイバー攻撃からのウクライナのインフラ防御(慶応大学教授)

・経済はそもそも安全保障の柱(内閣特別顧問

・サイバーセキュリティ対策のカギは中小企業(シンクタンク代表)

・企業の協力を得るには説明と補償が必要(東京大学教授)

 

 主張の多くは産業政策に矮小化してはいけないというものに見えた。加えて特集外だが、コロンビア大のスティグリッツ教授の記事「ダボス会議に見た変節~グローバル化は衰退する」が興味深かった。今年のダボス会議は失敗だったとした上で、

 

市場経済全体にレジリエンスが欠けている

・市場はリスクの値付けをうまくできていない

・グローバリゼーション推進は欠陥のある超楽観主義だった

・それに対する反省もないダボス会議は、40年間世界経済の舵取りを誤った

・資本主義は寡占化の傾向があり、ダボス会議により独占が進んで社会が脆弱になった

 

 と手厳しい。世界が分断された結果、リスクの値付けが上手くいけばいいのですが。

陸軍の技術分野を一手に

 光人社のNF文庫「兵器入門」シリーズ、今月は「工兵」である。兵棋演習のコマでは横になったEの文字が付いた分隊コマで、歩兵とスタックして近接突撃を掛けてくると脅威だったのを覚えている。いにしえの話、ローマの軍隊は決して強くなかったが、土木工事・野戦築城能力が高く、当時の世界を制覇することができた。

 

 近代戦では、その守備範囲は飛躍的に増大した。帝国陸軍も、日露戦争以降技術兵科たる「工兵」に多くのミッションを与えてきた。ただ、かけられるリソースは決して潤沢ではなかった。主なミッションを挙げると、

 

・トーチカ等戦場における野戦築城

・道路、線路などの開設、輸送路の維持や運用

・橋梁建設、渡河点の選択

・トーチカ、鉄条網等の防御兵器の無力化

・坑道掘削、軽便鉄道敷設

・飛行場建設

・舟艇機動、海上輸送

・電気工事、通信設備設置運用

化学兵器生物兵器対応

・測量、気象観測

・爆発物処理、地雷探査・処置

 

 などの他に、各種の新兵器を最初に扱うことも期待されていた。ドイツ軍は「突撃工兵」という前線で闘う技術者を持っていて、火炎放射器や対戦車爆薬などの特殊兵器を使ったほか、短機関銃などをふるって歩兵掃討・AFV破壊などをやらせた。士気だけは高いが戦闘力の低いソ連兵にとっては、悪魔のような存在だった。

 

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 帝国陸軍の工兵も、火炎放射器や対戦車爆薬を扱ったが、それほど(武器も兵員も)数が多くなかったのだろう、戦果の記録はあまりない。なにしろ、輜重兵などの補助戦力を兵隊とすら見ていなかったような軍隊である。結局銃剣で決着をつけるつもりなので、工兵や特殊兵器も少なかった。

 

 ただソ連軍の圧力を常に受けていた関東軍では、独自の技術車輛などを開発していた。沼地をフロート付きキャタピラで機動する車輛もあった。それでいてダンプカーやブルドーザの開発は遅れていて、人力に頼る土木作業では島嶼間の航空戦を戦い抜くことは出来なかった。

 

 一方装甲列車のような「戦力」にはリソースを割いたようだ。榴弾砲を搭載、各車両に機関銃を装備しているのだが、これも活躍したという話はない。満州の匪賊を追い払うのが精一杯(匪賊は当然線路のないところに逃げる)だった。

 

 島国日本が無理な大陸進駐をする兵力を持ってしまったことが、本来重要なこういう兵科にリソースを割けなかった理由でしょう。アイデアは一杯あったのですがね。

ジョッシュとフィルの第二作

 昨日「そして殺人の幕が上がる」を紹介した、ジェーン・デンティンガーの第二作が本書(1984年発表)。前作に引き続き、女優兼演出家のジョッシュ・オルークと、ニューヨーク市警部長刑事のフィル・ジェラルドが探偵役を務める。

 

 二人は前作の事件で知り合い、恋人同士となった。相変わらずジョッシュは脇役を務めながら、ブロードウェイで暮らしている。この街にはいろいろな演劇界の人種がいて、本書でも俳優以外に演出家や照明係などの専門職、俳優等のエージェント、さらに演劇批評家が登場する。

 

 俳優たちのように直接舞台を支える人以外には、作者の目は厳しい。エージェントについては、

 

・鮫がエージェントを襲わないのは、共食いがいやだから

・あるシーンではエージェントは必要悪だが、それ以外では常に「悪」だ

 

 と酷評している。もうひとつ、批評家というのも演劇界に巣食うヤカラと思っているようだ。本書では、辛口批評で知られるセイリンという批評家が事件の発端になる。イプセンの作になる舞台が封切られたが、セイリンは主演女優のアイリーンを酷評する。演技の事ではなく、大柄で太目、年取っているということを汚い表現で非難したのだ。

 

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 怒り狂った女丈夫のアイリーンは、レストランで偶然出会ったセイリンに、フィットチーネを頭からブチまける。その後宥和に向かう兆候もあったのだが、セイリン家で行われたパーティでセイリンが倒れ、居合わせたジェラルド部長刑事の捜査でストリキニーネによる毒殺だとわかると、アイリーンは不利な立場に。

 

 前作と違って自ら疑われているわけでもないのだが、ジョッシュは恋人の依頼もあって事件の人間関係を探り始める。セイリンには女優のコートニーという婚約者がいて、彼女は妊娠していることが分かる。

 

 前作同様ブロードウェイの内幕話なのだが、TVドラマ・映画・脚本などの引用が多く、知っているもの(刑事コロンボ・Star Treckなど)以外は、引用された意味を理解するのに苦労する。また登場人物が姓で呼ばれたり名で呼ばれたり、統一されていないので日本人には読みづらい面もある。

 

 ただ今回はフィルの体を張った大活躍があって、ややジョッシュの影が薄いけれど面白いミステリーに仕上がっていました。二人の仲はこの後も進展するのか、気になりますね。

いっときだけの「家族」

 1983年発表の本書は、ミステリーが好きで後にはミステリー専門の書店まで経営するという傾倒を見せた女優ジェーン・デンティンガーの作品。ニューヨーク・ブロードウェーの演劇界を舞台にアラサー女優ジョスリン・オルークが探偵役を務めるシリーズの第一作である。

 

 作者の紹介を先にしておくと、ニューヨーク生まれで大学で演劇を学ぶ以前から子役として舞台を踏んでいたらしい。好きなミステリーと勝手知ったる演劇界を融合して、W・L・デアンドリアに「最良の演劇界ミステリー」と評させる作品群を発表している。

 

 ある日ジョスリンのところに代理人から、ブロードウェーで近く上演される「開廷期間」という舞台のオーディションを受けるよう電話がある。特に意識せず出かけた彼女は、そこで何人かの知り合いと出会う。この芝居、主演女優のハリエットは富豪の娘でわがままもの。集められた演出家・脚本家・舞台監督・美術監督・俳優も一癖も二癖もある人ばかり。

 

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 ジョスリンの役回りは、ハリエットが血栓症を患っていて万一舞台に立てなくなった時の臨時代理。それでもジョスリンは合格して、とりあえずの仕事にありつくことに。ただ過去にもハリエットとは因縁があり、ジョスリンの学生時代の先輩である脚本家のオースティンもハリエットとは仲が悪い。

 

 挙句ハリエットの息子ポールがLGBTで、たびたび顔を出して美術監督といちゃついたりする。当然リハーサルはうまくいかず、ジョスリンもハリエットと直接ぶつかってしまう。クビになるかなと思っていたジョスリンだが、ハリエットが殺されたことで微妙な立場に立つ。舞台は臨時代理でなく主演にジョスリンを配することで始めたいと監督たちがいうから、彼女には二重の動機があったことになる。しかしジョスリンに限らず動機を持った人物は関係者全部と言ってもよく、ニューヨーク市警の「切れ者」ジェラルド部長刑事は、彼女を使って関係者のうちわネタを探ろうとする。

 

 デアンドリアが評価するように立派な本格ミステリーで、かつブロードウェーという特異な世界を描いた面白い作品です。ジョスリンが最後に言う、「舞台と言うのはいっときの<家族>。集まって協力し合うけれど、終われば他人となって散っていく」という言葉が印象的でした。

死刑判断は法律論にあらず

 2012年発表の本書は、東京地裁などの裁判官を経験して現在は弁護士である森炎氏の著書。裁判員制度施行後3年経ち、死刑判断に変化が出ていることを論考したもの。有罪・無罪だけではなく、量刑まで裁判員が決めなくてはならない。死刑判決を下すにあたり、裁判員には職業裁判官より多くの心理的ハードルがあると思われる。

 

 帯にあるように「何が死刑と無期懲役を分けるのか」について、裁判員制度以前の基準が20ほどの実例とともに紹介されている。基準の最大のものは、犠牲者(殺した人)の数であり、続いて金銭目的か計画的かが問われる。

 

◆犠牲者3人以上

 94%の確率で死刑。無期懲役となったケースはいずれも金銭目的ではなかった。

 

◇犠牲者2人

 金銭目的のあるケースでは、死刑率81%。そうでないケースでは51%。

 

■犠牲者1人

 ほぼ無期懲役だが、凶悪な犯罪と認められたケースでは死刑があり得る。

 

 ここでいう凶悪な犯罪とは、計画的でかつ金銭目的なもの。具体的には、

 

・身代金目的誘拐殺人

・保険金殺人

・強盗殺人

 

 の3つがあるという。このような基準に対して、減刑の方向に動く要素もいくつかある。

 

        

 

 まず被告人の恵まれない環境、「無知の涙」で有名な永山死刑囚のようなケースだ。社会全体が被告人を追い詰めて犯罪を犯させたとの判断で、減刑される可能性がある。もちろん弁護人はその点を強調して、死刑判決を回避しようとする。

 

 続いて閉じられた空間での殺人、要するに家族内での殺し合いだ。無理心中のようなケースもある。その場合は、死刑にすると無理心中を完遂させることになるとの反対意見も出てくる。さらに心神耗弱ではなかったかや責任能力の有無についての判断、未成年の犯罪についてはどうか等々、死刑と無期懲役を分ける判断は、すでに法律論ではないと著者は言う。

 

 そこで問題となるのは、このような「常識」をもっている職業裁判官ではなく、一般市民が量刑を決めるという制度の運用である。本書発表の時点で3年しか経っていない裁判員制度だが、「犠牲者一人でも死刑」の判決が多くなっているという。戦後の混乱期を除いて年間10件ほどの死刑判決だったものが、このまま増えると年間20~50件になるのではと筆者は警告する。

 

 とはいえ、本書のすべての事例で一審で結審したケースはありません。プロ裁判官が裁く二審以降があるから、その点は心配いらないと思いますが。