戦争に医療は不可欠、元々頑健な肉体や十分な栄養補給が必要だし、戦場は危険で不潔なところである。戦傷だけでなく防疫や健康管理に至るまで、医療担当部署の責務は重い。太平洋戦争の終戦後まで含めて5年以上を軍医として従軍した柳沢医師が、戦後に戦時体験を綴ったのが本書である。
著者はマレー半島からシンガポールへの進撃、ニューギニア島でのポートモレスビー攻略戦とマクノワリ防衛戦などを戦い抜き、奇跡的に生還している。3,500kmを行軍し赤道を渡ること8回という戦歴である。彼は軍医の仕事を、
・医師として、人の生命を保全すること
・隊付軍医として、部隊員の健康保全を通じて戦力を維持すること
・軍人として、赤十字の条約に関わらず(敵兵への)殺傷行為を見逃すこと
を挙げて、根本的に矛盾した事だとしている。
配属されたのは独立工兵第15連隊。マレー半島に上陸し、高名な島田中佐の戦車隊と共に南下した。酷暑のジャングルの中の行軍であり、衰弱したり発病する兵士が出た。彼は「保健予備隊」の結成を提案、健康を損なった兵士を簡易救護所に収容して回復に努めさせた。
その一方で、銃火の中で橋梁を補修し対戦車障害物を除去する際に負傷した兵士の応急処置から後送を指揮して人命を救い、戦力を維持することにも奔走した。シンガポールへの道ジョホールバルでの活躍で、山下将軍から慰労の言葉を貰い感状を受けてもいる。
次の戦場ニューギニアでは、4,000mを越えるオーエンスタンレー山脈を越える作戦に従事した。ここで米豪軍が撤退した時残した高カロリー食料に感服し、捕獲食料を最前線の兵士や病気回復中の兵士に与えている。戦闘食(いわゆるミリメシ)は、
・自衛隊 1,800kcal
・米軍 3,500kcal
・ノルウェー軍 7,500kcal
と格段の差があるが、太平洋戦争当時はもっと落差があったようだ。コンビーフ・ビスケット・チーズ・粉ミルクチョコレートなどが豊富の米豪軍に対し、日本軍は握り飯程度だったと推測される。
南方戦線では、マラリア等の防疫についても重い課題があった。栄養不足で重労働をした兵士たちは、ウィルスへの抵抗力を十分持たなかった。本書では詳しく書かれていないが、敵軍の銃火よりマラリアの方が戦力低下の要因だった部隊もある。戦闘員ではない人が見た真実の太平洋戦争、勉強になりました。