新城彰の本棚

ミステリー好きの自分勝手なコメント

大型ノート三冊分の記録

 零戦こと零式艦上戦闘機は、その名の通り紀元2,600年(1940年)に制式となった帝国海軍の戦闘機である。その驚くべき航続距離は、広い太平洋で十二分の威力を発揮した。しかし、多少の改造はあったものの後継機に恵まれず、旧式化しながら1945年の終戦まで戦い続けた。

 

 本書は零戦の前身、96艦戦で中国戦線で戦い始め、終戦までの8年間を戦闘機乗りとして戦い抜いた岩本徹三少尉が残した三冊のノートを基に書籍化されたものである。7.7mm機銃2丁という貧弱な武装96艦戦を駆ってソ連のイー16を蹴散らす話から、太平洋戦争終盤にB-29を単機で撃墜する話まで、実に多様な敵機と渡り合った克明な記録が残されていた。

 

 最終的には士官に登用されているが、本来は下士官。中国戦線で鳴らした操縦の腕で分隊を任され、小隊の長になり、中隊も指揮するまでになった。個人技も素晴らしいのだが、むしろ編隊戦闘に長けた航空兵だったように思う。

 

 太平洋戦争序盤では、米軍の戦闘機はP-39やF4Fである。運動性では零戦の敵ではなく、カモであった。やや危険だったのは双胴の悪魔P-38だが、岩本分隊士は「凧のような機体でマトが大きく狙い易い」という。

 

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 ラバウルとその周辺ではわずかに30機ほどの零戦を指揮して来襲する敵機を墜としまくり、米軍に「ラバウルには1,000機の戦闘機がいる」と悲鳴を挙げさせるほどだった。ただ分隊士自らが言うように、「墜としても墜としてもやってくる」物量の前に撤退を余儀なくされる。

 

 そのころになると米軍の戦闘機の能力向上は著しく、F6FやF4-U、P-47、P-51という2,000馬力級が来襲する。それを1,000馬力級の零戦が迎え撃つのだから本来なら相手にならないはず。それを岩本一家は知恵と腕でカバーして互角の戦いを繰り広げた。

 

 岩本元少尉は戦後38歳の若さで病死、死後残された三冊のノートには図面入りで個々の戦闘の記録が残っていたという次第。これを読むと、不利な場合はそれなりに有利な場合は一気河成に戦う「哲学」のようなものが見えてくる。本書には無能な指揮官への批判も多い。もっと多くの航空兵が哲学を持って戦っていたら、もう少し戦局は・・・無理は言うまい。戦術級の戦いの本質が詰まった、勉強になる書でした。