戦後、日本は一種の探偵小説ブームになった。それまで世情を不安に落とすという軍部の意向で、発禁扱いだったのが解禁されたからだ。捕物帳などに逃げていた作者の復活もあったが、横溝正史や本書でデビューした高木彬光などの本格作家が登場したこともある。本書は1948年に発表された「刺青殺人事件」を、作者が後におおむね倍に書き足したものである。加えて作者があとがきなどでデビュー当時の思い出をつづったものや、未発表短編を含めて550ページの厚い文庫本になった。
学生の頃読んだ「刺青殺人事件」は、もっと短かったような気がするからオリジナルの原稿だったのかもしれない。45年以上たってもう一度読み直してみると、本格探偵小説のあらゆるものを詰め込んだ作品だったことが分かる。
・密室殺人の機械的トリック
・事件の要旨を箇条書きして再掲
・その後に「読者への挑戦」
・容疑者と探偵とのゲーム(心理分析)
・アリバイ工作
・巧妙なすり替え
・捜査陣に掛けられる心理的な罠
・明察神のごとき名探偵(神津恭介)
などが全部入っている。最初の原稿を読んだ江戸川乱歩が、「小説としての欠点はあれど、これほどのトリック・プロットとなると・・・」と褒めたのもうなずける。作者も戦争で人生を狂わされたひとり、医学部薬学科から工学部冶金学科に転じ、中島航空機で働いていたが、同社は解散になり失業していた。
占い師によると「長めの小説を書けば売れる」とのことで、横溝作品などを読んで以前好きだった、ヴァン・ダイン、クリスティ、クイーンらの作品を思い原稿を書き上げた。作者はもともと刺青には特別な思い入れがあり、これをデビュー作のテーマにした。いくつかのトリックを組み合わせて「自雷也・大蛇丸・綱手姫」を全身に彫った3兄妹を巡る物語を考えた。しかし売れるかどうか自信がなく、作者によるとさらにトリック・プロットを加えていったという。
その結果「小説としての欠点」を指摘されながら、江戸川乱歩の強い推薦で出版の運びとなり、作者はプロ作家の道を歩み始める。その後作者は神津恭介以外にも多くの名探偵を産み出し、法廷ものや架空戦記、歴史推理などの先鞭をつけた。
今読み返すと、戦後の混乱期だった日本の状況が逆に新鮮にうつります。大家のデビュー作とその誕生秘話、面白く読ませてもらいました。