戦後ミステリー界、第二期の巨人のひとり高木彬光は「名探偵らしい名探偵」神津恭介以外にも、何人(組)かの名探偵を生み出した。作者は理系の出身ゆえ、初期の頃は機械的・化学的なトリックを得意としていた。その解決には、医学博士である恭介が適任だった。
ただ作者は、自ら生み出したこの探偵を「失敗作」と思い始めるようになった。「明晰神のごとし」はいいのだが、その分人間味やリアリティに欠ける部分があったからだろう。それは、自らの作風への疑問でもあったはずだ。そこでリアルな詐欺事件を犯人の側から描いた「白昼の死角」(1960年発表)以降、作者は法律の世界を探求していくことになる。
そこで新しいレギュラー主人公として作者が生み出したのが、青年弁護士百谷泉一郎と女相場師大平明子(のちに百谷明子)のコンビ。士族の流れを汲み代々法曹界に身を置く百谷家の一人息子泉一郎は、まだ30歳前。夜の街で尾羽打ち枯らしたような男井上と会い、製糖会社の不正にかかわる事件に巻き込まれる。
井上は泉一郎とあった日の翌日、白浜の旅館から姿を消した。残されたカバンの中にはひとかけの角砂糖があった。井上は戦中台湾にいて、終戦直後に台湾から砂糖大量に密輸して逮捕された前科がある。しかし大手精糖会社に「貸しがある」と公言していたらしい。
その大手とは、新興実業家八坂鋭太郎が社長を務める八光精糖らしい。巨額の利益を生むとされる砂糖業界でのし上がりつつあり、株価が乱高下する「仕手株」としても知られた会社だ。八光精糖に不正ありとにらんだ泉一郎だが、米軍崩れの暗殺集団に狙われる羽目になる。
株取引の裏側など何も知らない泉一郎を知恵や資金で助けてくれたのが、経済評論家大平の娘明子。見た目は小柄な普通の女性なのだが、学生時代から株を扱い10万円を1,000万円にしたという「兜町の女将軍」だった。彼女はカネに糸目をつけず、私立探偵社を使って泉一郎をサポートする。
事件そのものはあまり派手ではないのだが、若い二人の魅力は大きい。血の通った名探偵夫妻の登場である。シリーズ最初の本書にだけは、恭介をほうふつとさせる「理屈だけで割り切る」性格の男が二人を助けるのだが、これ以降作者はしばらく神津恭介ものを書かなくなった。あるイノベーションが作者の中で起き、本格ミステリーから社会派ミステリーへと移っていったのでしょう。