新城彰の本棚

ミステリー好きの自分勝手なコメント

湾岸戦争(政治編)

 1990年8月2日、イラククウェート国境に集結していたイラク軍が国境を越えて侵攻。瞬く間にクウェートを占領してしまった。イラクは人口1,650万人、常備軍も約90万人持っている。人口170万人、常備軍2万人のクウェートに抵抗の余地はほとんどなかった。

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 TVニュース映像では、クウェート軍の装輪装甲車サラディン(イギリス製)2両が発砲しているところが何度も流された。しかし本来陸上の主力であったチーフテン戦車(保有200両以上)は、まったく戦わずイラク軍に鹵獲されてしまった。イラク軍は、ソ連製のT-72などのAFVを6,000両近く持っている。まともに抵抗できるはずはなかった。
 
 このころ僕は独身貴族で、地下鉄の終点駅に近い2LDKの賃貸マンションで暮らしていた。週末の午前中は、よく報道番組を見ていた。その報道番組が、イラククウェート侵攻で非常にHOTになった。TVのない時代、例えば日中戦争が起きると新聞の売り上げはハネ上がった。それと同じで、紛争はメディアを潤すわけだ。
 
 イラクの「独裁者」サダム・フセインは、かねてからクウェートイラクの一部であると主張していた。もともと中東エリアに国境などない。後年欧米列強が「勝手に」引いた国境線があるだけである。当時のイラクは世界の悪役国家に揚げられていたが、イスラム教の国としては珍しく民主的な国である。曲がりなりにも大統領選挙はあるし、女性の兵士までいる。一部王族が石油の富を独占、栄耀栄華に暮らしているクウェートの方がよほど非民主国家である。
 
 しかし国際社会はイラククウェート侵攻は、国際法違反だとしてフセインに撤退を求めた。もちろんそんなことを「はい、はい。」と聞く相手ではない。国連では意見がまとまらなかった関係で、国連軍ではなく多国籍軍が編成されて、サウジアラビアに派遣される「砂漠の盾」作戦が始まることになる。
 
 多国籍軍の中心であるアメリカの危機感は、この紛争がサウジアラビアに飛び火することだったろう。文字通りサウジ家のアラビアである同国は、クウェートと変わらない王族支配の国だ。サウジに灯が点けば、当時シェールオイルなどなく、中東の石油に頼っていたアメリカ経済は甚大な被害を受ける。いまでも日本は、それに頼っているのだが。
 
 週末のTV報道番組は、毎週湾岸の情勢を伝えないといけないが、後に述べるように多国籍軍専守防衛の「盾」作戦から反転攻勢の「嵐」作戦に移行するには時間がかかる。その間毎週報道しないわけにはいかないから、ここに至る過去の経緯や各国の思惑など直接の戦闘に関する情報以外のネタでつなぐしかない。おかげで僕は、それまでほとんど興味がなかった中東情勢やその歴史を知ることができた。
 
 準備の整った多国籍軍は1991年1月17日、航空攻撃を開始、2月24日には大規模な地上戦も始まり、月内にクウェート全土を奪還した。勢いとしてはバクダットまで侵攻できたかもしれないが、多国籍軍はここで停止。戦闘力に甚大な被害を受けながら、フセインイラクは生き残った。
 
 一方アメリカのブッシュ(父)大統領は、一時期支持率80%を越え再選確実と言われながら、民主党の新鋭ビル・クリントンに破れ一期で大統領職を終えた。当時まるきりドメスティックな仕事ばかりしていた僕に、国際的な政治への興味と知識を与えてくれたのがこの事件とTV報道だった。
 
<続く>