新城彰の本棚

ミステリー好きの自分勝手なコメント

軍部専横のきっかけ

 昨日「満州某重大事件」こと張作霖暗殺事件の首謀者、河本大作(当時)大佐の一代記を紹介した。この事件を戦前日本の凋落のきっかけとなったものと捉えた歴史家大江志乃夫が、昭和天皇が亡くなった後の1989年に発表したのが本書である。

 

 暗殺事件は1928年6月に起きたのだが、これは昭和天皇が即位して3年目のこと。令和も早々から種々の事件や災害が起きているが、昭和もそうだったと筆者は言う。主なものは3つ。

 

1)不景気:金融恐慌から世界恐慌に至る。

2)満蒙問題:ソ連・中国と対峙し軍事・外交的に行き詰る。

3)国体問題:大正デモクラシーから治安維持法改悪へ。

 

 で、2番目の項目を代表するのが張作霖暗殺だった。改めて当時の満州の地図を見ると、旅順から長春までは満鉄だが、長春以北はソ連の鉄道。満鉄の奉天駅では北京・天津から来た中国の鉄道がクロスしていて、それは吉林まで伸びている。

 

 古来大陸の王朝でも、支配は点(都市)と線(通商路)しかできなかったから、満州エリアにはソ連・中国の支配が及び、それに満鉄という形で日本が割って入っていた状況が良く見える。当時の満州には数十万の日本人や半島人が暮らしていたが、それを守る日本軍(満州軍)は一握りで、張作霖らの中華系軍閥は兵力で10倍以上いた。

 

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 河本大佐(満州軍高級参謀)は、張作霖さえ除けば10倍以上の馬賊たちは内紛で四分五裂すると見ていた。そして暗殺を契機に満州に争乱を起こし、半島からの援軍を受けて一気に満州全体を制圧するつもりだった。満州軍司令官村岡中将も、暗殺に加担こそしなかったが、同じプランを持っていた。

 

 何もしらされていなかった本国の陸軍や政府は、本件を「現地日本軍の謀略の可能性がある」と見たが、深い追及は出来なかった。首相田中義一(陸軍出身)は、まず天皇に「日本軍の謀略の公算あり、厳正に処分する」と言いながら腰砕けになり「鉄道警備を怠った行政罰に留める」と上奏して若い天皇を激怒させる。

 

 恐懼した田中首相は直ちに辞任、2ヵ月後に心臓発作で急死する。これを天皇は悔い、以後軍部が専横してもこれを咎めることを遠慮するようになった。現に河本らが画した事件から満州制圧計画は、後任の石原莞爾らによって「柳条湖事件」と言う形で成功する。

 

 筆者は昭和天皇の戦争責任を追及する形で本書をまとめたのですが、平成にならないと発表できなかったということですね。