新城彰の本棚

ミステリー好きの自分勝手なコメント

鉄甲船と亀甲船の伝説(後編)

 石山本願寺攻略に続いて、越後の上杉謙信が死に、甲斐の武田家を滅ぼした織田信長だったが、明智光秀の謀反で横死する。光秀を「中国大返し」で破った羽柴秀吉の天下になるのだが、このあたりは「信長の棺」「秀吉の枷」を読んだ人なら、作者の仕掛けは分かるはずだ。

 

 その豊臣(と改めた)秀吉だが、日本を統一した後明国を攻略しようとして朝鮮半島から攻め入る。当時世界で一番多くの鉄砲を持っていた国である日本軍は、薄紙を割くように半島を侵攻するのだが、海戦に敗れ補給が途絶えて一敗地にまみれる。韓国で英雄とあがめられる李舜臣率いる「亀甲船」に日本の水軍が壊滅させられるのだ。日本史で「白村江の戦い」の再現と言われた戦闘である。文禄の役と呼ばれるこの戦いの後長い和解交渉が続くのだが、その間に九鬼守隆らは、「亀甲船」への対策を考えていた。

 

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 「亀甲船」はまさに亀のような上部装甲(といっても木製)を持ち、そこにはトゲが生えていて戦闘員の乗り移りを許さない。亀の首の部分に大口径の砲があって、これに大型化した日本船は側面を撃たれた。正面衝突を避けて回頭したところを狙われたのだ。守隆は、「亀甲船」の弱点はトップヘビーであり開口部が少ないことから転覆しやすいと見抜く。威力のある大砲も射撃頻度は低く有効射程も短いから、回頭せず目標を小さくして接近、舳先をぶつけて傾けてやれば自然に沈むと考えた。

 

 現実に和解が破れた後の慶長の役では、この戦法で「亀甲船」艦隊を退け指揮官の李提督を敗死させている。ただ戦争そのものは豊臣秀吉の死で終了、日本軍は撤退して以後長い鎖国時代へと向かっていく。朝鮮半島侵攻について、徳川家康が守隆に語る言葉が面白い。「朝鮮半島民族はぬえのようなものだ。つかみどころがなく、軽々しく侵攻すれば痛い目に合う」という。今にも通じる言葉のように思う。

 

 関ヶ原の戦いでも九鬼水軍の主力は東軍の兵站などを海上輸送し、守隆は大御所家康に近い存在になる。家康は清水港に対外貿易・軍事拠点を設けようとして守隆の協力を求めた。秀吉とは違うやり方で海外進出を考えていたのだ。その計画も家康の死後、後継者たちはこの計画を顧みず「外洋艦隊構想」は幻となった。

 

 史実に基づきながらエンジニアリング的に大胆な仮説を立てた本書、作者の代表作かとも思います。