新城彰の本棚

ミステリー好きの自分勝手なコメント

酒仙隊長、クロパトキン大将を走らす

 昨日紹介した明石元次郎大佐(日露戦争当時)が「日本情報戦力の父」なら、本書の秋山好古少将(同)は「日本騎兵の父」と呼べるだろう。伊予松山藩の士族の出身で、弟の真之(東郷艦隊の参謀)が海のヒーローなら兄は陸のヒーローだった。

 

 小柄で愛嬌のある弟と違い、大柄で欧州人に近い風貌をした好古は、士官学校では騎兵科を選択した。軍用車両などというものが存在しない時代、機動力といえば馬匹だったが、日本の馬は欧米のそれに比べると小型で貧弱。日本の騎兵を謁見した欧州軍人は、

 

 「日本人は馬のようなものに乗っていた」

 

 と陰口を言った。欧州では騎兵には3兵種あって、

 

・胸甲騎兵 ヨロイを付け槍など持ち、衝撃力で敵を倒す決戦兵力

・竜騎兵 ヨロイはないが剣付の騎兵銃を持って多用途に使われる

軽騎兵 乗り手も馬も小型で、もっぱら偵察・捜索を担当する

 

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 のうち、日本軍では「軽騎兵」の配備が精一杯だった。好古は「敵に勝つ騎兵を作る」ことを人生の目標に掲げ、欧州に学んだり陸軍乗馬学校の校長や、軍馬の改良をする研究機関長も兼務した。乗馬学校長時代「騎兵砲兵隊」の構想を発表している。ここでいう砲とや山砲ではなく機関砲のことで、

 

・1門の機関砲は25名の兵に匹敵する火力がある

・各砲に1万発の弾薬を持たせれば、40分間の戦闘が可能

・峻険な地形では山砲より機動性があり、騎兵への随伴が容易

 

 だから、体当たりしてくる重騎兵をなぎ倒す戦術に欠かせないと主張した。

 

 日清戦争でも活躍をした好古の部隊だが、日露戦争ではその活躍は群を抜いていた。騎兵3,000を基幹に、砲兵・工兵を加え、通信設備も刷新した「秋山支隊」8,000人は戦場を駆け巡った。

 

 旧満州の地での陸戦は、常にロシア軍が数の優勢(1.5~2倍の戦力)を持っていた。黒溝台の戦いでは5倍以上のロシア軍を引き受けて要衝を守り抜き、奉天会戦では戦線後方に進出した秋山支隊におびえたロシア軍司令官クロパトキン大将が、不可解な撤退命令を出し会戦に日本軍が辛勝できる原因を作った。

 

 戦いの最中、好古は高粱酒を飲み味噌漬けの大根をかじって指揮を続けたという。大酒のみだったし風呂嫌いで、日中の下着のシラミ退治は隊の名物だった。明石大佐も「汚れの明石」と言われたが、こちらはもっと上。身なりも構わずカネにも執着せず、ただ日本の騎兵の充実を願った、70余年の生涯であったといいます。