新城彰の本棚

ミステリー好きの自分勝手なコメント

陸軍参謀本部作戦課長

 服部卓四郎という名前は、何度も戦史・戦記の中で見ている。しかしどういう人物だったか、印象はあまりない。帝国陸軍のエリートとして、選択肢として常に強硬な方針を示し、結果として日本を破滅の淵に追いやったとされるが、そんな軍人は大勢いた。歴史に埋もれがちなこの人物に本書(2022年発表)でスポットライトを当てたのは、歴史研究家岩井秀一郎氏。

 

 服部の経歴で目を引くのは、

 

①1929年3~9月 関東軍作戦主任参謀

②1941年7月~42年12月 参謀本部作戦課長

③1943年10月~45年2月 同上

 

 で、①の時点でノモンハン事変を主導して、多大な損害を受けている。この時関東軍の上級指揮官は退役させられたが、主導した参謀(高名な辻政信も)は一時期左遷されるものの、やがて陸軍中枢に戻って来た。

 

        

 

 特に服部は、2・26事件のあった1936年前後に2年間日本を離れていて、皇道派と統制派の抗争に巻き込まれなかった。そして、事実上太平洋戦争のほぼ全ての期間に、陸軍の行動を定める作戦課長を務めることになる。

 

 緒戦の快進撃を支えた作戦の立案から、守勢に回ってからの対策など、海軍も含めて内部での服部の評価は高い。ガダルカナル島防衛を巡る軍内部の抗争で、一時期作戦課長を離れるのだが、その期間は東條首相の秘書官を務めた。まさに黒子である。

 

 しかもその手腕は、戦後も発揮されることになる。中国戦線から復員した彼は、占領軍G2のウィロビー少将に気に入られ「大東亜戦争全史」編纂に係る。1950年に警察予備隊が編成されるときにも、表には出ないが種々の関与をしたとある。しかし本人の入隊は、当時の官邸(吉田内閣)の反対で成らなかった。

 

 憲法改正論者であり、自衛隊についても多くの言葉を残している。「大規模な軍を持っても総力戦では(日本は)大国に叶わない。小粒だが十分な戦力を持て」と核武装を提唱した。平時から戦力を磨き「抜かざる佩刀こそ重要」とも述べている。

 

 エリート軍人として「戦争責任」を負いながら、処世術で人生を全うした人物と筆者はコメントしています。しかし、分かりやすく説明する技術をもち、TOPの理解をえるのに長けていた人物であることは確かですね。