新城彰の本棚

ミステリー好きの自分勝手なコメント

湾岸戦争(戦術編)

 「砂漠の嵐」作戦は、1991年1月17日に空爆やミサイル攻撃で幕を開け、2月24日に地上戦に突入月内にクウェート全土を奪還して事実上終了した。この短い期間に、多国籍軍側は様々な兵器を投入、新兵器のテストをし旧兵器の最後の活用もした。

 
◆空戦
 多国籍軍は、最初にクウェートからイラク南部にかけてのレーダー網を破壊するため、対地攻撃ヘリAH-64アパッチを投入した。新月の暗さに隠れてアパッチはレーダー施設にヘルファイァミサイルや30mm機関砲を発射、これらを即時に沈黙させた。
 
 同時にF-15Eストライクイーグル戦闘爆撃機A-10サンダーボルト攻撃機らがバクダットを含むイラクの航空基地など軍事拠点を襲った。新鋭のF-111ステルス攻撃機が実戦デビューする一方、古参のB-52ストラトフォートレス爆撃機やF-4Gワイルドウィーゼル電子戦用機も投入された。ワイルドウィーゼルは主力の空爆に先立ってレーダー施設等を破壊する斬り込み隊で、ベトナム戦争から同じ目的で使われている。
 
 イラク側もMig-29やミラージュF-1を繰り出して迎撃にあたったが、制空戦闘機であるF-15F-16の相手にはならずたちまち数機を失って引き下がった。機の性能というより、パイロットの連度が段違いだった。イラク経済制裁に悩み、カネのかかるパイロットを育成する余裕がなかったのである。
 
 結局500機ほどを保有していたイラク軍は、固定翼機・回転翼機合わせて40機あまりを失い、多国籍軍機を1機も落とせなかった。多国籍軍側は、初期のドローンも初めて偵察用に使っている。
 
◆海戦
 イラク側は数隻の小艦艇しかペルシア湾に展開できておらず、空母・戦艦を含む80隻あまりの多国籍軍との間にまともな戦闘は起きなかった。哨戒艇などを蹴散らした多国籍軍は、アイオワ級戦艦「ミズーリ」と「ウィスコンシン」の2隻から、トマホーク巡航ミサイル約80発を発射したほか、300発もの16インチ砲弾をクウェートにいるイラク地上軍に浴びせた。

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 これが20世紀の戦略兵器であった戦艦の、最後の実戦参加だった。「ミズーリ」は、今ハワイの真珠湾で記念館として浮かんでいる。海戦と言えないくらいだが、イラク軍はペルシア湾に大量の機雷をバラ撒いた。これにより強襲揚陸艦トリポリ」が損傷するなど、被害が出た。イラク軍の主力兵器は機雷だったというわけ。戦後、世界一と言われる掃海技術を持つ日本の海上自衛隊に出動要請があり「海外派兵反対」のシュプレヒコールの中、自衛隊が出発したのを覚えている。
 
◆陸戦
 イラク軍にとって、空戦・海戦で抵抗できないのは分かっていたこと。しかし陸戦ではそうは行かないと、多国籍軍側も思っていた。5,000両以上のソ連製AFVは決して侮れない相手である。ただ地上戦が始まった2月24日の前に、1カ月以上にわたって空爆や砲撃がありクウェートイラク軍の補給は絶たれていた。
 
 バクダットの司令部との連絡も十分とれなかっただろうし、下手に動けば攻撃ヘリや対地攻撃機、艦砲射撃までやってくる。士気は低下していただろう。多国籍軍が迫ると、二線級部隊は降服を始め総崩れになった。督戦部隊として後方に控えていた「大統領警護隊」は、やはり立ち向かってきたものの戦力の違いは明らかになった。例えば、2月27日アメリカ陸軍のM1A1エイブラムス戦車20両が、大統領警護隊のT-72戦車52両と戦闘を交えたが、45分でT-72は半数を失って撤退。アメリカ軍側に行動不能になった車両も、戦死者も出なかった。
 
◆結局
 多国籍軍の戦死者(KIA)は150人、行方不明者(MIA)37人に対し、イラク軍の戦死・行方不明者は15,000人以上、50,000人あまりが捕虜となった。いわゆるキルレシオで1対100ということで、まともな戦闘ではなかった。イラク軍は中東の中では精強で知られ、軍備増強に余念がなかった国である。それがこの惨敗ということで、多くの国の「独裁者」は震え上がった。
 
 ソ連が崩壊していたこともあり、この後「パックス・アメリカーナ」の時代が続くことになる。もはや国と国との戦争というより、地域の局地戦・非正規戦争(Low Intensity Conflict)が主体になってゆく。