新城彰の本棚

ミステリー好きの自分勝手なコメント

完全犯罪に対するスタンス

 最も成功した完全犯罪とは、露見しなかった犯罪である。犯罪があったことに気付かれなければ、捜査も行われず、罪に問われることもない。普通のミステリーは、犯罪が露見してからの難題(アリバイ・密室・凶器・動機等々)を探偵役が解いてゆくプロセスを追うものだから、スタート時点で犯人側は大失敗をしていることになる。
 
 匿名作家アーサー・ウィリアムズの「この手で人を殺してから」のような例外はあるものの、捜査に至らなかった事件というのはミステリーにはなりにくい。しかし現実社会では完全犯罪は、結構存在すると主張する法医学者もいる。地方の医師不足は良く報道されるが、検視医不足もまた顕著であるらしい。
 
 その結果として、不審死をしても解剖されない(検視の手が回らない)ケースが増えている。「死体は今日も泣いている。日本の『死因』はウソだらけ」によると、年間17万人の死亡が警察に通報されるものの、解剖されるのは2万人に留まっているという。年間15万人の死因未確認者がいるというのだ。

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 少し古い(平成16年度)の数字だが、殺人事件の認知は 1,419件、検挙率 94.6%とある。日本の警察は優秀だと思うのだが、ちょっと待っていただきたい。2万人の不審死者の7%が殺人と認識されているだけなのだ。
 
 残り15万人の不審死者の7%だったら、1万件以上の殺人が認識されずにいる計算にならないだろうか?まあ、解剖だけが殺人と認識する決め手ではなかろうから1万件は誇張した数字としても、その1割 1,000件くらいの完全犯罪はがあったかもしれないと、僕は思う。
 
 さて、ミステリー・ベスト10の常連となっているカトリーヌ・アルレーわらの女」も、完全犯罪を扱っている。もともとフランス・ミステリーは好きではなく、これも書評筋が、傑作・傑作というものだから読んでみた。
 
 ものすごく雑駁にいうと、とりすました感じのイギリス・ミステリー、歯切れのよいアメリカ・ミステリーに対してフランス・ミステリーは、じっとりとした感覚がある。アルレーという作家は「悪女もの」で知られていて、それも(子供だったからかな?)好みではなく敬遠していた理由だった。
 
 読んでみると、傑作であることは疑いがないと思った。犯罪者の側だったはずの「悪女」が、ワナに落ちてゆく過程のサスペンスは圧巻である。後半のかなりの部分を、彼女を利用して完全犯罪を達成した男が彼女に顛末を話すシーンがある。ここの迫力がすごい。すべての希望を失った彼女が自殺し、男は大金をせしめ優雅な暮らしに入ってゆく。この救いのないスタンスが、アルレーの真骨頂だろう。
 
 ところが映画化された本作では、最後に思わぬ証拠が見つかって男が真犯人として捕まってしまう、というシナリオに書き換えられていた。完全犯罪の成功・(彼女にとって)救いのない結末・・・というのは当時(1964年)では映画化しづらかったのかもしてない。そうはいっても、本作のスタンス「完全犯罪は成功する」を、勧善懲悪話に変えてしまったのは許しがたい。違いますかね?アルレー先生。