新城彰の本棚

ミステリー好きの自分勝手なコメント

挑戦し続けるがゆえの女王

 アガサ・クリスティーのレギュラー探偵は、官憲ではない。ポアロはベルギー警察時代は官憲であったが、初登場した「スタイルズ荘の怪事件」(1920年)ですでに引退し私立探偵として活動している。ミス・マープルに至っては、官憲と関わったことすらない老婦人である。トミー&タッペンスは、民間勝手諜報員のようなもので、政府関係機関から依頼を受けることはあるが「正規雇用者」ではない。

 
 クリスティーの作品中では、官憲はもっぱら脇役、ときには無能者あつかいされてしまう。その例外的な存在が、本書含め5作品に登場するバトル警視。5作品と言ったが、その中には脇役で終わるものもあり事件解決のヒーローになるのは本書くらいのものかもしれない。それでも作品中バトル警視がエルキュール・ポアロを思い出すなどと独白し、ポアロの影が見え隠れする。

         f:id:nicky-akira:20190421124558p:plain

 それではなぜ本書の探偵役にバトル警視が選ばれたかというと、クリスティーが新しい挑戦をしたかったからだろう。作中、2度も出てくるフレーズがある。要約すると、推理小説は出発点が間違っている。殺人で始まるのが普通だが、実際には殺人は結果であって原因はそのずっと前から存在している。殺人というゼロ時間に向かって時間が集約してゆく、というもの。
 
 この考えが根底にあって、それに挑戦しようとしたのが本書。そのためには従来のパターン(殺人が起きてポアロが呼ばれ、過去を掘っくり返して犯人を突き止める)を崩す必要があり、レギュラー探偵を使いづらかったわけだ。
 
 富豪の未亡人の住む田舎町の豪邸に、休暇を過ごすために遺産相続人のスポーツマンがやってくる。しかも現在の妻と元妻を連れて。豪邸に集う親戚や友人たちもからんで、不穏な雰囲気が醸成されてくる。そんな中で起きる不審な死と殺人、しかしこれはまだゴールではなくゼロ時間はさらにその先に用意されていた。
 
 本書の発表は1944年、第二次世界大戦の真っ最中にもクリスティーは執筆にいそしんでいたわけだが、似たようなシチュエーションが「災厄の町」(1942年)にあったことを思い出した。架空の街ライツヴィルの名門ライト家で起きる陰惨な事件を描いたものだが、本書同様ライト家を不穏な雰囲気が包み込みそれが後半の殺人事件につながるストーリーだった。
 
 クリスティーがクイーンの「災厄の町」をどのように受け取ったかはわからないが、ミステリーのパターンである殺人で始まるストーリーを外してみたかったことは間違いはない。さてその結果だが、女王の挑戦には敬意を払いながらも僕はクイーンの方に軍配を挙げたい。ご興味ある向きには、読み比べてみることをお勧めしたいですね。