太平洋戦争はほとんどが島嶼の争奪戦で終始し、空母艦隊や水陸両用戦部隊の活躍ばかりが目立った。従って「日の丸戦車隊」がその威力を見せたのは、序盤のマレー半島電撃戦くらいのものである。もちろん欧米の戦車と平地で戦えば、全く相手にならなかったことは自明である。
https://nicky-akira.hatenablog.com/entry/2019/11/25/060000
実際に「ノモンハン事変」では、ソ連の軽戦車(T-26、BT-7など)に対して、日本の戦車隊は歯が立たなかった。そんな日本戦車だが、陸軍の近代化を訴え技術開発に尽力した「日本戦車の父」と呼ばれる人がいる。原乙未生(敗戦時)中将である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E4%B9%99%E6%9C%AA%E7%94%9F
本書は原中将の半生を描いたもので、その先見性や十分に計画を達成できない無念さが記されている。原中将の考えを一番よく表していたのが「軍備改変」構想。1935~36年にかけて日本陸軍が欧州視察に出掛けた「大島軍事視察団」の一員として参加した後に発表したものである。要点は、
・火力、機動力に優れた若干の重点師団を作る
・地上支援用航空機、戦車、自動車編成の砲兵、自動車化歩兵を強化
・当時の戦闘単位だった師団の規模縮小と師団数増加
・重点方面を定めて全師団をそのニーズに合わせた編成とする
・対空防御として師団に機関砲中隊(20mm砲12門)を配備
・独立対戦車砲大隊(37mm砲24門)を配備、対戦車ライフルを研究開発
・ガス攻勢は敵が警戒する程度で良く、最重要場面で奇襲する際は全力攻撃
・ガス防御は遅れているので、消毒能力強化などを早急に研究開発
・宣伝と秘密情報漏洩対策も遅れていて、秘密情報漏洩防止機関を新設
これらの着想は、主に整備が進みつつあったナチスドイツの軍備・編成・訓練などを見て得たものと思われる。予算の関係で難しかったとは思うのだが、この構想が実現していたら中国大陸などでももう少しましな戦いができただろう。