新城彰の本棚

ミステリー好きの自分勝手なコメント

戦前民主主義のピーク

 1936年と言えば「2・26事件」が勃発し、クーデターそのものは失敗に終わったものの以後軍政が強くなり、日本は日中戦争から太平洋戦争へと傾斜していったメルクマールの年だ。後世の評価ではもっぱら悪者は陸軍、「皇道派」と「統制派」の対立もあり、血なまぐさい事件を経て、政治を壟断、民主主義を圧殺した主犯と言われている。

 

 しかし曲がりなりにも立憲民主主義国家だった当時の日本、政党はどうしていたのか知りたくて本書を買ったのは10年以上前。一読して忘れていたのだが、「お金配れ対お金配らない」の対立に代表される「市場原理派対社会福祉派」の議論が盛んなので、これが1936~37年にもあったことを思い出して再読してみた。

 

 「2・26事件」の直前には総選挙があり、政党地図に変化があった。

 

立憲政友会 242→171

・立憲民政党 127→205

社会大衆党 5→18

国民同盟 20→15

・昭和会 24→25

・その他 48→28

 

 政友会は「皇室中心主義」、民政党は「議会中心主義」だが、いずれも産業界・資本家をバックにしている。民政党が特に「反ファシズム」を強調して議席を伸ばした。ファシズム政党である国民同盟・昭和会はともかく、福祉重視の主張をした社大党は躍進した。

 

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 最大勢力となった民政党は、平和を熱望し「粛軍」を主張して軍部と対立する。ただ味方につけるべき労働者層には冷淡で、企業に従業員の退職金積み立てを義務付ける法案を骨抜きにして民衆の怒りを買った。一方社大党は軍部との直接対決を避け「広義国防」を唱えた。これは軍拡も容認するが社会福祉も充実させてねというもので、「国家総力戦」を考えていた軍部にも益のある主張だった。そして翌年の総選挙では、

 

立憲政友会 171→175

・立憲民政党 204→179

社会大衆党 20→36

国民同盟 11→11

・昭和会 24→19

・東方会 9→11

・日本無産党 0→1

・その他 27→34

 

 と再び社大党が躍進した。筆者(近代政治学坂野潤治氏)によれば、このころ自由主義社会民主主義の気運はピークだったが、民意を反映できるスキームではなく、以後の悲劇に突き進んでいったとのこと。社会民主主義の社大党(戦後の社会党)も、軍部容認だったことが分かりました。陸軍だけが悪者ではなく、平和主義・反ファシズムの流れが、市場原理の既成政党と福祉重視の社大党の対立で歪められたというのが主張でした。