以前日露戦争の陸の英雄秋山好古少将(当時)の伝記を紹介したが、本書はその10歳下の弟秋山真之少佐(当時)の伝記である。父親の引退と長男の体調不良によって、秋山家は貧しい暮らしをしていた。好古は任官して俸給の大半を実家に入れ、「淳(真之の幼名)を学校にやってくれ」と言ったという。その支援が無ければ、天才参謀は生まれず、東郷艦隊はロシア艦隊に敗れていたかもしれない。それは朝鮮半島のロシア領有と、日本の植民地化を招いていた可能性が高い。
日露戦争は国力に大きな差のある大国ロシアに、極東の後進国日本が挑んだ戦い。ニコライ二世は、日本人を公式文書で「猿」と呼んで、問題にしなかった。日本軍が主戦場たる旧満州に兵力を送るには、日本海の制海権が絶対必要。しかし海軍の主力たる戦艦は、日本海軍(連合艦隊)には6隻しかない。ロシアは、バルト海・黒海・極東に分かれてはいるものの20隻近い戦艦を持っていた。
対ロシア艦隊の戦いに備え、艦隊司令長官は日高大将から、退役間近の東郷大将に変更になる。山本海軍大臣は陛下に「東郷は運が強いです」と理由を述べたと言うが、実は万事中央の意向を汲んで動いてくれる東郷を買っての人事だった。
東郷長官は「作戦遂行は参謀たちに任せる。万一の時の責任は自分がとる」という信念を持っていた。そこで若き参謀真之の出番が巡ってくる。ただ真之の階級は少佐、作戦主任参謀になったのも異例の若さである。その上には参謀長島村大佐や先任参謀有馬中佐(及びその後任たち)がいる。
よく真珠湾攻撃の時の作戦参謀黒島大佐のことを変人というが、真之の変人ぶりも相当なもの。ベッドにいる時も軍服を脱がず靴を履いたまま。目を開けて天井を睨んでいる間は作戦のことだけを考えている。目を瞑っている時も、寝ているか考えているかは分からない。ポケットに煎り豆を入れていて、始終ポリポリかじっていたという。
1904年の8/10は、日露戦争における「黄海海戦」のあった日。旅順港を脱出しようとしたロシア東洋艦隊(戦艦7隻基幹)を東郷艦隊(戦艦4隻基幹)が迎え撃った戦い。真之によれば翌年の「日本海海戦」よりずっと苦しい戦いだった。
この戦いに勝ち、翌年のバルチック艦隊来航に備えることができたのが、日露戦争辛勝の主因でした。変人参謀をよく重用し、作戦全部を任せた長官以下の上司たちは、とても偉かったと思いますね。