新城彰の本棚

ミステリー好きの自分勝手なコメント

エスピオナージ風のポワロもの

 本書の発表は1940年、英国大陸派遣軍がダンケルクから命からがらの撤退をし、フランスは降伏してしまった年だ。チャーチル首相が「Their Finest Hour」と強がっても、英国が一番苦しかったころに違いない。皮肉なことだが、前年に代表作「そして誰もいなくなった」を発表して、アガサ・クリスティは絶頂期(Her Finest Hour)にあった。

 

 作者はもともと「明るいスパイもの」が大好きで、ポワロの登場する本格ミステリーは商売ものと割り切り、トミー&タペンスを主人公にスパイものを発表していた。しかしこのころには「アクロイド殺害事件」や「そして・・・」のような単発ものを除いて、ポワロものがメインになっている。本格ミステリーとしての円熟度がピークに達していたせいもあろう。もう一人の名探偵ミス・マープルは、まだ登場作品が多くない。

 

 しかし1940年というご時世は、作者にエスピオナージ風の作品を書くも気にさせたと思われる。一方でポワロが大嫌いな歯医者に出かけるシーンで始まるなど、ユーモラスな場面も多い。そう「明るいスパイもの」への回帰が感じられるのだ。

 

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 ポワロが通った歯科医院の医師が、その日に拳銃で頭を撃たれて死んだ。また医師に治療を受けたギリシア人が、ホテルに戻って死亡する。歯科医が治療用の薬の量を変えたための薬物死で、間違いに気づいた医師が自殺した可能性を警察は考える。

 

 しかし拳銃を以前から医師がもっていたという情報はなく、自殺するような人ではないとの証言も多い。さらにギリシア人と同じ船で英国に着いた婦人が行方不明に、当日ポワロやギリシア人と相前後して治療を受けに来た財界の大立者が狙撃されるという事件が続く。ポワロが手繰る糸の先に見えた人物は、どうも英国諜報部の仕事をしていて大陸のどこかで任務に就いているらしい。ロンドン警視庁には外務省から「事件をほじくり返すな」との圧力がかかり、ポワロにも匿名電話で「手を引け、ためにならんぞ」とのメッセージが届く。

 

 このころもうワトソン役のヘイスティグズ大尉は登場せず、ポワロは多くの登場人物と会話をしながらそのセリフで読者にヒントを与えていく。作者のベスト10には入るとの評判でしたが、ポワロの解決はちょっと迫力不足。まあ久しぶりにエスピオナージ風を書いたので、それだけで作者は嬉しかったのかもしれません。