ミステリーの女王アガサ・クリスティーも、デビュー間もない頃は自分のスタイルを見つけるために苦労をしていたようだ。僕としても、デビュー作「スタイルズ荘の怪事件」、第6作「アクロイド殺害事件」を除いては1920年代の諸作は(ミステリーとしては)評価できない。しかし、第8作「ブルートレイン殺人事件」でそのスタイルを確立するヒントをつかんだと思われたことは、以前紹介した。
本書は「アクロイド殺害事件」に先だつ1925年、長編5作目として発表されたものである。冒険好きの青年アンソニー・ケイドが、南アフリカで友人に持ち掛けられた「イギリスに原稿を運んで1,000ポンドと引き換える」アルバイトを引き受けたことから物語が始まる。この原稿はバルカン半島の(架空の)王国ヘルツォスロバキアの宰相スティルプティッチ伯爵の回想録で、政変続く同国の混乱やそれに端を発する再度の世界大戦を引き起こすかもしれない暴露本である。
これに同国で最近見つかった大油田の権益を争う英米の政界・財界の動きもからんで、複雑な情勢になっている。実際に後日起きた第二次世界大戦では、ナチスドイツの石油供給源になったルーマニアのプロイェシュティ油田を彷彿とさせる。
イギリス社交界の大物ケータラム侯爵のチムニーズ荘には、ケイド青年含め上記の関係者が続々集まって来て、パーティの後ヘルツォスロバキアの王位継承者ミハイル大公が射殺体で発見される。イギリス政府にとっての重大事件ゆえ、スコットランドヤードからはやり手のバトル警視が派遣され、フランス人の宝石泥棒、フランスの官憲、アメリカの私立探偵、ユダヤ系と思しきイギリス財界の重鎮にイギリス社交界の人たちもからんだドタバタ劇が繰り広げられる。
クリスティ女史は本当に「明るいスパイもの」が大好きで、天下国家の一大事に若い冒険好きの男女が立ち上がる(巻き込まれる?)話が一番書きたかったようだ。本書でも探偵役のバトル警視の影は薄く、実質的に事件を解決するのはケイド青年である。それでもこの事件は、ケイド君が公私ともにハッピーな状況になって終わり、彼をトミー&タペンスのようにレギュラー主人公には出来なかった。
僕は、書き始めた時作者は彼をレギュラー化することを考えながら話の流れでそうできなかった、もしくはケイド君のキャラではレギュラーに出来ないと思ったかで、途中で話をドラマティックな方向に変えたのだと思う。女王もこの時点では、自らの道を模索していたのでしょう。