新城彰の本棚

ミステリー好きの自分勝手なコメント

昭和天皇の弟君

 世は「昭和」の次の「平成」、さらに「令和」になろうとしている。その三年前、三笠宮が亡くなったというニュース映像で、宮の軍服姿を見たのを覚えている。三笠宮は第二次大戦の終結を、中国大陸で陸軍の参謀として体験したという。昭和天皇には、3名の弟君がいる。男性皇族は軍に入るのが当然だった時代ゆえ、三男の高松宮は海軍、次男の秩父宮と四男の三笠宮が陸軍の籍を持っていた。

 
 ノーブレス・オブリージュという言葉が示すように、貴族特に王室の人は軍務に就くことが普通である。イギリス王室のウィリアム王子も、ヘリコプターのパイロットを務めている。三笠宮より13歳年長の秩父宮雍人(やすひと)親王も、陸軍で参謀を務めた。 

      f:id:nicky-akira:20190413094104j:plain

  の主任参謀服部卓四郎らがいる。
 ・1922年、陸軍少尉として任官。
 ・1931年、第一師団歩兵第三連隊中隊長。このとき
  2・26事件の首謀者安藤輝三も同連隊にいた。
 ・1932年、参謀本部作戦課に異動。作戦研究として
  フィリピン攻略戦を検討している。この研究結果は
  後年ほぼそのまま実行された。
 ・1935年、弘前歩兵31連隊大隊長
 ・1936年、2・26事件。
 
 欧州を震撼させた第一次世界大戦が1919年に終わり世界は矛盾をはらんだまま模索し、結果として次の大戦になだれ込んでいった。そんな時代、軍籍にあった親王は(皇族は)何を考えたのだろうか。
 
 2・26事件のおり、多くの知己が反乱軍として立てこもっている東京に向けて、秩父宮弘前から急行している。兄の昭和天皇とどのような話し合いをしたか、この書の著者保阪正康氏は綿密な調査をして記している。反乱軍の首謀者たる青年将校たちは、天皇親政による国家改造を掲げる「皇道派」が多かった。気心の知れた秩父宮の存在は、心の支えだったのかもしれない。
 
 2・26事件当時三笠宮は20歳そこそこ、陸軍士官学校の生徒だった。それでも、事件にあたり兄君たちがどう考え行動したか、ご存知かもしれなかった。この時昭和天皇の兄弟は全て世を去り、歴史は少しだけ遠くなった。そして今「令和」の時代になる。