新城彰の本棚

ミステリー好きの自分勝手なコメント

一生に一度の機会

 深谷忠記は、「壮&美緒シリーズ」の合間に年1作程度「ノン・シリーズ」を発表している。「壮&美緒シリーズ」は地方色の強いアリバイ崩し中心の本格ミステリーだが、ライバルとも言える「浦上伸介シリーズ」の方が僕は好きだ。しかしこの作者にはパターン化しない独特の作品があり、時々素晴らしいものに巡り合うことがある。本書はそんな1冊、大学生のころ一度読んだのだがその良さが分かったのは40年後である。

 

 副題「長屋王の変異聞」とあるように、時代は730年ごろ。「壬申の乱」が終り天武天皇が政権を握った後亡くなり、女性天皇を何代か経て天武の息子、高市皇子派と草壁皇子派が覇権争いをしているのが平城京の現状である。高市皇子の子長屋王左大臣の要職にあり、急速に台頭してきた藤原一族と対峙している。

 

 とはいえ長屋王に政務能力があるわけではなく、文化にいそしむ趣味人である。世を治めるとして、大般若経600巻を写経させ自ら巻末文を添えた。ところがこの巻末文に不用意な表現があり、後に彼を破滅に追いやることになる。天皇家に対する不遜とも取れる表現があることを清書した下級官吏の東人は知り、藤原氏に誘われて長屋王への讒訴に手を貸す。

 

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 現代よりもずっとひどい格差社会、東人は優秀だが低い身分の生まれなので出世できない。この厳しい格差社会についての解説が、生々しい。東人は普通は越えられない五位の壁を越えるため、一生に一度の機会として藤原氏の誘いに乗ったわけだ。

 

 もう一人「一生に一度の機会」を得た人物がいる。天武天皇の第10皇子の新田部である。彼は長屋王への讒訴があるとの情報を得て、ひどく迷った。配下の兵士を動員して長屋王の身柄を守り、陰謀をめぐらす藤原氏を討って政権を奪う機会が転がり込んできたのだ。しかし彼は動かず、翌朝藤原氏の軍勢が長屋王の屋敷を包囲、王を自刃に追い込んでしまう。

 

 新田部は死にあたり、子供達には「何もするな、成り行きに任せよ」と遺言しながら自らの選択を後悔しつつ息を引き取る。一方東人は五位下の官職に就いたものの家族を疫病(長屋王の祟り?)で失い、自らも長屋王の部下だった人物に斬殺される。「一生に一度の機会」を掴んだものも見送ったものも、自らの人生を悔いて死を迎えたわけだ。

 

 「千載一遇の好機」と見えるものをどう考えるか、人生の重い命題を突き付けるのが作者の意図ですが・・・とても答えられませんでした。