新城彰の本棚

ミステリー好きの自分勝手なコメント

二つの大戦間に跳梁した犯罪者

 以前「あるスパイの墓碑銘」を紹介した、エリック・アンブラーの第五作「ディミトリオスの棺」は長らく手に入らなかった。僕にとっては「名のみ知られた名作」のひとつである。先日例によってBook-offでみつけ、カバーもなくページの中まで日焼けが進むなどボロボロの装丁だったが喜び勇んで買って帰った。

 
 奥付を見ると、昭和49年改訂1版印刷とある。僕が大学に入ったころだ。高校生のころ、探しても見つからなかったのは絶版になっていたからだろう。このころハヤカワのポケットミステリーはいち早く高騰しはじめ、本書も590円である。創元推理文庫が高くても300円台だったことから、お小遣いの限られた学生にとってポケミスは縁遠いものになっていた。そういう意味でも、本書は懐かしいものである。
 
 発表は1939年、ヒトラーの軍隊がポーランドに攻め入った年である。物語は、文明の十字路イスタンブールで幕を開ける。イギリス人の探偵作家ラティマーは、ここで一人の刺殺体に出会う。ギリシア人ディミトリオス・マクロポウロス。1922年トルコとギリシアの紛争があったスミルナでユダヤ人の金持ちを殺した容疑に始まり、ブルガリアでは首相暗殺事件に関与、トルコでもケマル・パシャ首相暗殺未遂事件を起こした容疑がかかっている。

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 その後、ユーゴスラビアやスイスを経由してパリで人身売買や麻薬密輸/販売をしていたらしい。興味を覚えたラティマーは、ディミトリオスの足跡を追うように欧州を駆け回る。この稀代の犯罪者は行く先々で変名を使い、共犯者は逮捕収監や処刑されているのにひとり逃げ延びている。ラティマーはたどりついたパリで、ディミトリオスの麻薬犯罪に加担した男に会い、「ディミトリオスは生きている。死んだのは身代わりだ」と告げられる。
 
 麻薬(ヘロイン・コカイン・モルヒネ)やその用法、どうやって常習者になっていくかの記述がヴィヴィッドで、数ページにわたるほど詳しい。ラティマーは生きているディミトリオスを脅迫してカネを脅し取る計画に巻き込まれ、ついに追いかけていた本人と対峙することになる。
 
 第一次と第二次大戦間の欧州は非常に不安定な時代だったことが、本書の背景にある。1922年といえば第一次大戦が終わって4年、そんなころギリシアとトルコの間で紛争(というより戦争)があったことなど知らなかった。当地にいたアルメニア人も巻き込まれて、大勢の犠牲者を出したようだ。今や歴史ミステリーになってしまった本書ですが、十分楽しめました。