ナチス・ドイツの発明品のひとつに暗号通信機「エニグマ」がある。語源はギリシア語で「謎」という。人を食ったような命名ではある。暗号通信は、軍事上の最高機密といっていい。戦略方針や作戦目標が筒抜けでは、いかに優秀な装備・訓練を施した軍隊でも勝利は覚束ない。
第二次大戦は、装備が近代化された軍隊同士が比較的長期にわたって戦った戦訓である。当然各国の暗号通信がどう使われ、どう守られもしくは破られたかは、作家の想像をかきたてる一大テーマである。
マイケル・バー=ゾウハーは1938年ブルガリア生まれのユダヤ人(もしくはユダヤ系)。当時のブルガリアは枢軸中小国の一員で、ドイツに近い政治状況にあった。ブルガリアはドイツと共に戦い、ユダヤ人迫害の一角を担った後敗戦国になる。彼はその動乱を生き延び、1948年に建国されたばかりのイスラエルに移住する。中東戦争ではイスラエル軍の報道官を務め、国会議員にもなった。モサドかどうかは別として、国家の謀略戦を実際に戦った経験があるのだろう。
CIAのエージェントを主人公にしたスパイ小説「過去からの狙撃者」でデビューし、本作が3作目にあたる。ある意味ステレオタイプかもしれないCIAエージェントが主人公の前2作とは異なり、第二次大戦中の秘話をひとりのフランス人盗賊を中心に描いている。
ベルボォアール男爵と名乗るこの盗賊、アルセーヌ・ルパンのようにはしっこい。ナチの金塊を盗むような大仕掛けをするくせに、銃を撃ったことも人を殺したこともないという「美学」を持っている。
彼は英国政府からの要請(というより強制)によって、ノルマンディ上陸作戦までにエニグマを1台盗み出すミッションに就く。ゲシュタポが目を光らせている占領下のフランスに潜入、追撃をかわして目標に迫るのだがその手口は巧妙を極める。好敵手とも言うべきドイツ軍のエリート大佐と、虚々実々の駆け引きをする。それだけでも十分面白いのだが、もうひとつ大きなどんでん返しがある。それは読んでのお楽しみ、ということで。本物のテイストをもった謀略小説というジャンルで、ベスト3に入る名作と思う。